[He chose the best condition.]
「もう一度確認します……」
細いメガネのフレームを押さえながら、男は鋭い目つきで俺を一瞥した。
「自己破産の手続きをなさるつもりは、無いのですね?」
名前は……確か初対面のときに名刺を貰った気がするが忘れた。いや、正しくは最初から覚える気なんて無かったんだと思う。
「ああ、無い」
窓際に置かれた、自分のデスクに両脚を投げ出して、俺は短く吐き捨てた。
唇を動かしたはずみで、くわえていた煙草の灰がデスクに落ちる。今更、焦げが増えたところで構いやしない。どうせあと数日で、馴染んだこの場所も引き払うことになるのだから。
「…………」
弁護士を名乗る男は、俺を見据えたまま、しきりに何かを考えている様子だった。
「借りた金はきちんと返す、って言ってるんだ。アンタだってそっちの方が、いいんだろう?」
「いえ、私は所定の手数料を頂くだけです」
俺が雇ったわけではない。彼は債権者の依頼を受けてここに来ているだけだ。両者の間でどのような契約が交わされているかなんて知らないし、興味もない。
「随分と変わった人だ。私は仕事柄、色々な債務者を見てきましたが、この状況で、貴方のように落ち着いている人は珍しいですよ」
「そうか? ……色々ありすぎて、もうワケが分からなくなっただけだろう」
喚いたり、焦ったり、逆恨みしたり……そんな感情はとっくの昔に何処かへ置き忘れてきた。
「ま、そういうわけだ。ご苦労さん」
さして年齢の変わらない弁護士は小さな溜め息をつくと、応接セットのテーブルに広げた書類を片付け始めた。きちんと順番に重ね、角を揃えて鞄に戻していく。
俺は煙草をくわえたまま、几帳面で無駄のない彼の動作をぼんやりと眺めていた。
書類の回収を終えた男は鞄を小脇に抱えると、ソファーから立ち上がった。
茶の一杯ぐらい出してやるのが礼儀かもしれないが、もうこの事務所に俺以外の人間はいない。
俺が茶を淹れるぐらいなら、自販機で缶コーヒーでも買ってきた方が、よっぽど気が利くってもんだ。だが、席を立つ気にはどうしてもなれなかった。
電話線を引き抜いたままの電話機が、ふと視界の端に映る。用事のある人間は、この男のように直接自分の足で出向くのが懸命だ。
「無駄足だったな。あちらさんにもよろしく伝えといてくれや」
「…………」
皮肉が癇に障ったのか、一度は玄関に向けた踵を返した。コツコツと靴音を響かせながら、俺の元へと歩み寄ってくる。
「……ストレスが溜まるのは分かります。ですが、吸い過ぎは身体に響きますよ」
吸い殻で山になった灰皿に目線を落とし、不快そうに眉を顰める。
「余計なお世話だ」
誰のせいでこんな風になったと思っているんだ?
ほんの数ヶ月前までは、匂いを嗅ぐのも嫌だったそれのフィルターを思い切り噛みしめた。
「芹沢さん……」
「お前の用事はもう済んだんだろう。早く雇い主の元に帰れ!」
犬は犬小屋に戻れ。喉元まで出かかった言葉を、無理矢理呑み込む。
「貴方には借金返済の意思がおありになる、ということで宜しいですね?」
レンズ越しの双眸が、念を押すように俺を見つめた。
「何度も言わせるな。出来の悪い相方を選んだ俺にも責任がある。……心配しなくても高飛びしたり、クビくくったりするつもりはねーよ」
保証人は俺ひとり。身内はもういない。当面の間、起こりうるであろう問題に対しては、出来る限りの手を打った。俺以外の人間が巻き込まれることは無いはずだ。
「それを聞いて安心しました……」
慇懃無礼な態度がいちいち癪に障る。
俺は短くなった煙草を吸い殻の山に押し込むと、目の前の男を睨みつけた。
「……私の『弁護士』としてのアドバイスは、先程のお話で終わりです」
臆した様子もなく、男はデスクに右手を付くと、身体を前方にぐっと乗り出した。重みを受けたデスクが、鈍く軋んだ音を立てる。
「ここから先はひとつ、ビジネスのお話をしましょうか」
「ほう……」
俺は新しい煙草に伸ばし掛けた手を止めると、あらためて男の顔を見つめた。
「蛇の道は蛇、と申しますか……」
口調こそ変わらないものの、瞳には猛禽類のような鋭い光が宿り、薄い唇は冷酷に歪んでいる。
見誤った。どうやらこの男は、こちらの顔が「本物」のようだ。
「効率の良い返済手段がいくつかあります。勿論、非合法ではありますが……」
堅気でない債権者が雇う弁護士もまた、やはり堅気では無かった。
* * *
December 16th,200X
「雅臣、どういうことだ!」
柳漣は部屋に戻るなり、リビングの定位置で眠っていた同居人の上に勢いよくのし掛かると、くたびれたシャツの襟首を思い切り掴み上げた。
煙草とアルコールに混じって、香水の残り香がふわりと漂う。果たしてそれがどちらの身体から発せられるものなのか、判別はつかない。
「―――ぐっ……」
間接的に喉を締め上げられて、雅臣は苦しそうに呻きながら、瞼を開いた。暗灰色の虚ろな瞳が、紫水晶の双眸を捉える。
はっとして、柳漣はシャツを掴んだ力を緩めたものの、押さえ込まれていた空気が一気に気管を通り抜けたせいて、雅臣は激しく咳き込んだ。
「……おい、起こすにしても、もっとマシな方法があるだろう」
喉元をさすりながら悪態をつく。
「雅臣っ……」
柳漣は無精髭のざらつく顎を両手で挟むと、噛みつくようなキスをした。寝起きで意識がはっきりしないのか、普段なら寸分躊躇わずに突き飛ばすその行為を、雅臣は無抵抗に受け入れる。
「……お前は極端なんだよ。やぶからぼうに何だ」
ようやく顔を離した柳漣に、同居人は抑揚のない声で、めんどくさそうに呟いた。
「君は一体何人の女性と付き合っているんだ?」
「は……? そりゃ、何の話だ」
「見たんだよ。君は連日違う女性と会っていたね、違うとは言わせないよ」
「お前……俺を尾行(つけ)たのか」
ようやく事態を把握しはじめた雅臣は、ばつが悪そうに目線を逸らした。
「ああ、そうさ。この2日間、ずっと跡をつけさせてもらった」
薄暗い室内に、沈黙が漂った。弱々しい朝陽がカーテンの隙間から射し込んでいる。
柳漣は固唾を呑んで、組み敷いた相手の言葉を待ち続けた。
「……いい加減に離れろ、重い」
長い沈黙を挟んで、雅臣は掠れた声でぼそりと呟くと、柳漣の両肩を掴んで静かに自分の身体から引き離した。
緩慢な動作でソファーから起き上がると、テーブルの煙草に手を伸ばす。最後の1本だったそれを引き抜いて、箱を掌でぐしゃりと握り潰した。
「互いのプライベートには非干渉、と言ったはずだがな……お前は俺のストーカーか?」
オイルライターの蓋を跳ね上げる乾いた音が、やけに響いた。
煙草に火を点け、紫煙をゆっくりと吐き出しながら「似たようなもんか」と継ぎ足す。
「そりゃ悪いと思ったよ。でも、気になってどうしようもなかったんだ」
柳漣は立ち上がって姿勢を正すと、電源の切られたテレビを見つめた。黒いままの画面に雅臣の姿が映りこむ。
「……まあ、見られちまったなら仕方がない。いつまでも取り繕えるもんじゃないしな。
いいぜ、教えてやるよ……それで訊いたことを後悔すればいいさ」
「雅臣……?」
沈黙が重く、心に痛かった。柳漣は腕を組んで瞳を伏せたまま、ひたすら雅臣の言葉を待つ。
「……あいつらは恋人なんかじゃない。客だ」
「客……」
「借金があるんだ、すげえ額の借金が……まともに稼いで払える額じゃない」
カーテンの隙間から漏れる朝陽を凝視しながら、雅臣は灰に溜めた煙を吐き出した。
「それで女相手に『ウリ』をやっているのか?」
「生憎とそっちは『流し』の営業じゃない。仲介経由の固定客だ。俺も詳しくは知らん」
一種の愛人契約みたいなもんだ、と補足して、皮肉めいた笑みを浮かべる。
「……俺が知っているのは、金と暇を持て余した良いトコのご婦人連中だってことぐらいだよ。どうだ、これで満足か? 分かったならもう俺に関わるな」
「…………」
柳漣の胸にじわじわと広がった感情は、驚きではなく、落胆だった。
「フン、軽蔑しただろう」
「いや……」
雅臣の昼間の顔を見たときから、ある程度の覚悟はしていたことだ。
しかし真実を自分の耳で聞いて、受けたダメージは思ったよりも大きかった。
柳漣も懇意になった客と身体の関係を結ぶことはある。しかしそれは自由恋愛の延長線であって、誰かに強要されてするものではない。
「何故そう思う? お前の言う通り、俺は金の為に身体を売ってるんだよ」
「そんな風に言うのは止せ……どうして借金なんて……」
「金を稼ぐのは大変だが、借金を作るのは簡単だ、ってことだよ。昔、仕事でちょいと失敗した。気の短い相棒の巻き添えをくらっちまってな……それ以上は勘弁してくれ、古傷に響く」
煙草をくわえたまま、寝癖のついた髪をかきむしった。
抱えた負債の額が、それなりの額であることは、柳漣にも予想がつく。だが、その返済の仕方はおおよそ納得のいくものではなかった。
「だからって……他に幾らでも方法はあるだろう? 最悪、自己破産だって出来るじゃないか」
「お前は俺じゃない。仮にお前が俺の立場だったとして、自己破産に踏み切る度胸はあるか?」
「それは……」
鋭い切り返しに、思わず口籠もる。
「自分が出来ないことを安易に言うな」
「……ごめん」
雅臣はそれっきり口を閉ざすと、じっと虚空を見つめながら、煙草の煙を揺らし続けていた。
少し猫背気味の広い背中――慰めも同情も求めていないその後ろ姿に、柳漣は唇を噛みしめて肩を落とすと、静かにリビングを出て行った。激しい後悔だけが、ただ胸に残った。
* * *
腹黒極悪弁護士からの提案を受けた、数日後。
俺は都内のとある一流ホテルの廊下に立っていた。毛足の長い絨毯の感触が、どうにも落ち着かない。
フロアの位置はほぼ最上階……間違いなくスイートクラスの部屋だろう。
こんなところを牙城にしている連中なんぞ、大抵ロクなもんじゃない。
部屋番号と時間を確認して、深呼吸をひとつすると、ドアをノックした。
数秒の間を置いてドアが開いた。がたいの良い黒服が半身を出してこちらを窺う。
短く借り上げた頭髪に、昼間からサングラス着用ときたもんだ。懐に物騒な獲物を仕込んでいたところで何ら不思議ではない。
門番がこの調子では、奥に控えてるのはさぞや偉い方なのだろう。
「弁護士から紹介を受けた、芹沢だ」
「……入れ」
予想通り、そこはかなりの広さのスイートルームだった。全面に広がった窓からは都心を一望することが出来る。
「そのままこっちに連れてきて頂戴」
奥の方から艶のある女性の声が聞こえた。
「来い、こっちだ……」
豪勢なリビングを素通りして、俺が案内されたのは何故かベッドルームだった。
部屋の中央に置かれたキングサイズのベッドに、身体のラインを強調したワインレッドのスーツに身を包んだ妖艶な女性が腰掛けている。20代の後半ぐらいであろうか……全身から強烈なフェロモンと危険な香りが漂っている。
「待っていたわ」
さしずめ、ここはヤクザの情婦の部屋といったところか。
「有り難う。貴方はさがって頂戴」
黒服は恭しく一礼すると、リビングを繋ぐドアを閉めた。部屋には俺と彼女だけが残される。
「私は……そうね『仲介屋』とでも呼んでくれればいいわ。仕事の詳細は聞いてる?」
脚を組み変えながら気怠そうに髪をかき上げると、甘く淫靡な香りが周囲に満ちた。一時代昔に流行ったフランス産の香水だ。
情婦ではない。どうやら、この女が「仕事」を取り仕切っているようだ。
「まあ、大体は……」
弁護士から聞いた仕事の内容は、お世辞にも趣味の良いと言えるものではなかった。
「近くに来て、顔を見せて……」
甘えるような声に誘われるがまま、女の元に歩み寄った。身長差があるので、必然的に彼女を見下ろすかたちになる。
「背、高いわね……名前は?」
「芹沢雅臣」
アイラインのきつい瞳が微かに細められる。化粧を落とせば、案外若いのかもしれない。
「顔も悪くない……彼、確かに見所があるわ」
商品を見定めるような目線が不愉快だった。だが、あながちその表現は間違いではない。
スーツと同じ色のマニキュアに彩られた指が、ゆっくりと首から顎を撫でていく。
「雅臣……アナタ、恋人は?」
「今はいない」
「なら心配ないわね……まあ、いたところで結果は変わらないけど……これは私の気分の問題。……じゃあ、始めましょうか」
女はヒールを床に落としながら、意味深な笑みと共に俺を見上げた。
「始めるって……何をだ?」
「勿論、面接よ。ただし……」
真紅のルージュに濡れた唇が、淫らにほくそ笑む。
「……ベッドの上で、だけどね」
腹黒極悪弁護士が、俺に提示した返済方法は3種類。
ひとつ目の方法、マグロ船に乗れ。
生命保険云々以前の問題に、俺は船が嫌いだ。
ふたつ目の方法、臓器を売れ。
煙草に酒、不規則な食生活の恩恵を被って、俺の臓器は汚れて売り物にならなかった。
そして、残ったのは、第3の選択。
時間と金を持て余したマダムたちの慰みものになれ。
俺は一番条件の良いものを、選んだに過ぎない――――。
Chapter 9 第3の選択 -Lover contract-
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キャラ紹介を読めば一発で分かるような、ネタバレ解説編でした。
またしてもMLにあるまじき(略) 女性との濡れ場の方が多いって、どうなのさ?
名前すら用意していない脇役が、カッコ良くなりすぎる傾向があるようです。
あの始まり方で「弁護士×雅臣」な展開にならないのが、なんともウチらしい(笑)
(2007/4/29)
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