10.その手は掴めない-前編-

  • Posted on 10月 15, 2011 at 11:11 PM

[Don’t let me down.]
 

December 20th,200X    

師走とは良く言ったもので、12月も下旬に差し掛かると、飲食店の忙しさは平常の比ではなくなる。
柳漣の切り盛りする料亭とてその例外に漏れず、懇意にしている常連客の予約で、連日連夜、満員御礼だ。
間もなく冬至を迎えるというのに、店の後片付けと〆処理を終えて外に出れば、空がすっかり白みきっていることも、最近では日常の見慣れた光景と化していた。

冬の凍てついた空気が、曝した肌を容赦なく切りつける。
吐き出した吐息は、外気に触れた途端、真っ白になって、風に運ばれて行った。
いつもよりも早く客足が引けた為、時刻は5時をやっと回ったところだ。空だけを見れば、まだ完全に夜と表現した方が似つかわしい冬の朝だった。
かじかむ両手を擦り合わせながら、柳漣は店の前に停められたタクシーに駆け込んだ。

「お待たせ」
乗り込んだ客と同じか、それ以上に疲れた顔をした運転手は、ルームミラーを一瞥すると、くわえていた煙草を灰皿にねじ込んだ。
「…………」
「雅臣から連絡してくるなんて、珍しいじゃない」
「別に。たまたま通りがかっただけだ」
ダッシュボードの表示器は「回送」となっていた。即ち、料金メータは回っていないということになる。
同居を始めてからというもの、柳漣の都合による一方的な呼び出しに、雅臣が応じることは、まず無かった。
しかし、明け方、店の近くを通りがかった場合に限り、ついでの「荷物」として、彼を自宅マンションまで運んでくれることが、ごく希にある。
無骨で無愛想な同居人ではあるが、彼なりに住居と(半ば強制的な)食事を提供して貰っていることに対して、そこそこの恩義を感じているようだ。
たとえ訊いたところで、そっぽを向いて否定されるのは分かりきっているので、家主もあえて口に出そうとは思わなかった。雅臣とはそういう男である。
柳漣は肩に羽織っていたストールを膝元に置くと、窓に頬をつけて寄りかかった。普段であれば、無精な車の持ち主に「掃除が面倒だ」と睨まれることも珍しくないが、今日に限っては何も言われなかった。あるいは文句を言う気力すら、無いのかもしれない。
雅臣は新しい煙草に火を点けると、強めてあった暖房を元に戻して、ハンドルを握った。

明け方の幹線道路は空いていた。
通勤ラッシュにはまだ早い時間帯な為、まばらに並走しているのは、車庫へと戻るタクシーか長距離トラックといった状況だ。
車が走り出してからは、両者共に一言も喋らなかった。
窓ガラスの向こうには、遅い夜明けを待つ都会の街並みが流れている。柳漣はそれらを見るとはなしに見つめていた。
雅臣が疲れているのは訊くまでも無いし、些細なことで、機嫌を損ねたくなかった。
お互い徹夜明けである。ましてや年の瀬の繁忙期。忙しさは何大抵のものではない。
雅臣にとってもそれは同じで、毎日何処かで忘年会が行われている今の時期は、必然的に労働基準法を無視したオーバーワークを要求される。
自営業故に完全歩合制、年一番のかき入れ時でもあるので、不満こそ口には出さないものの、疲労は着実に蓄積されているはずだった。
本来であれば、睡眠を取って身体を休める為の日中帯は、件の「副業」を続けている様子で、言葉通りの肉体労働を昼夜問わず続けている。にも拘わらず、寝酒の量は減るどころか確実に増えていた。おそらく彼の限界はそう遠くない。
その証拠に、ただでさえ少ない口数はさらに減り、ロクに文句すら出て来ない有様だ。
同じ部屋に住んでいながら、すれ違い続ける生活。最近では会話どころか、挨拶すらまともに交わした記憶が無かった。
柳漣はせめて形式的な挨拶だけはするように心がけているが、対する雅臣は「ああ」か「うん」果ては無視されることも多々あった。
以前の柳漣であれば、何とかして彼の機嫌を取ろうとしたであろう。
しかし、数日前に「副業」の正体を知った気まずさから、無意識のうちに雅臣を避けるようになっていた部分があることも、また否めなかった。
一方の雅臣は、仕事の内容を柳漣に打ち明けてもなお、日々の行動パターンを変えるつもりはない様子だ。相変わらずのくたびれた仕事着で部屋を出て、一度営業所に出向き、そこで私服に着替えてから逢い引きを続ける、というスタイルは、今でも継続している。
直接問いたださずとも、部屋に持ち帰った香水とシャンプーの残り香が、全てを物語っていた。

適度な揺れが心地好い。
柳漣は自身に降り掛かる、強烈な眠気と懸命に闘っていた。
「雅臣、悪いけど、少し眠らせてもらうよ……」
部屋に戻るまでは耐えようと思っていたが、もう限界だった。そうこうしているうちに、身体がどんどん重くなり、意識が薄れていく。
雅臣には到底敵わないものの、柳漣とて決してアルコールに弱いわけではない。だが、この時期に摂取する量は、日が続くと流石に堪えた。
「後ろに乗っているのは荷物だ。荷物は何も喋らない」
つまりは「好きにしろ」という意味だ。
便宜上、今の柳漣は確かにそういう扱いなのだが、あからさまに言われるとむっとくる。
何か言い返してやりたい気持ちはあったが、眠気に逆らうことは出来ず、静かに瞼を閉じると、まどろみに身を任せた。

 
             *  *  *

「……おい」
肩を強く揺すられ、柳漣は眠りの縁から現実に引き戻された。
見上げれば、雅臣の不機嫌そうな顔。その向こうには地下駐車場の天井が映っていた。
「……あ、ごめん」
「早く降りろ」
身体が鉛のように重くてだるい。やっとの思いでシートから身体を離すと、急いで車を降りた。
ドアの閉まる音が、人気の無い駐車場に木霊する。あと30分もすれば、通勤の車でここも騒がしくなるだろう。
雅臣はポケットに手を突っ込んだまま、ドアロックを掛けると、早足にエレベータホールへと向かった。
普段より余裕のないその態度に、柳漣は若干の違和感を抱いたものの、置いて行かれないようにと、慌てて後を追い掛けるうちに忘れてしまった。

雅臣はエレベータに乗り込むと「12」のボタンを押して、そのままだらしなく壁に凭れ掛かった。
ようやく追いついた柳漣が、小走りで駆け込む。走ったせいで眠気は大分治まっていた。
「雅臣っ――」
ドアが閉まった瞬間、柳漣は雅臣に抱きついて首に手を回すと、強引に唇を重ねた。
戯れに交わされるキスは、雅臣にとっても犬に噛まれた程度の認識に過ぎない。この程度の悪ふざけが拒絶されることは、まず無かった。
「……っ!」
重ねた唇の熱さに驚いて、柳漣は思わず目を見開いた。
慌てて唇を離すと、前髪をかき上げて、今度は額を合わせる。そこはまるで焼いた石のような熱を帯びていた。
「ちょっと、凄い熱じゃないか!」
よくよく見れば、顔色はいつにも増して悪く、暗灰色の瞳は熱のせいか、どんよりと澱んでいる。
「薬が切れただけだ。これぐらい寝ればすぐに治まる」
「薬って……具合が悪いなら、もっと早く言ってくれれば……」
ただの疲労ではなかった。タクシーの客となるべきは、むしろ彼の方だったのだ。

エレベータは途中で停まることなく、目的の階へ着いた。
「ほら、無理しないで」
「いらん。余計なお世話だ」
ふらつきながら通路を歩き出した雅臣に、柳漣は肩を貸そうとしたが、乱暴に振り払われた。
心配そうな表情を浮かべたまま、柳漣は彼の後を追う。通路の最端がふたりの部屋だった。
口ではどうこう言いながら、やはり相当の無理をしていたのだろう。
「……鍵、頼む」
玄関に辿り着くなり、緊張の糸が切れた雅臣は、柳漣の懐に勢いよく倒れ込んだ。

 
Chapter 10 その手は掴めない -Sick heart-
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続きが長くなったので、分割させていただきました。
今回はちょっとだけ甘めの展開になりそうな予感。
あくまで当サイト比なので、過度の期待は禁物です。
(2007/5/17)

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