10.その手は掴めない-後編-

  • Posted on 10月 15, 2011 at 11:18 PM

[Don’t let me down.]
 

December 20th,200X

用意されて以来、明らかに使われた形跡の無い、雅臣の寝室。
頼まれれば話は別だが、私室の掃除までは勝手に行わないので、柳漣が立ち入ったのはこれが初めてだった。
おそらく雅臣にとってこの部屋は、物置兼、更衣室に過ぎないのであろう。申し訳程度の私物と服が僅かに置かれているだけで、生活感というものが微塵も感じられなかった。
柳漣は埃っぽいシーツを乱暴に剥ぐと、そのまま床に落とす。
疲れているのは自分も変わらないはずなのに、今は全く気にならなかった。
「雅臣、早く着替えた方がいい」
真新しいシーツを広げながら、部屋の片隅に置かれた籐の椅子を見遣る。そこにはぐったりとした雅臣が、手足を投げ出して沈んでいた。
「…………」
椅子の主は首を微かに傾けると、気怠そうに熱っぽい吐息を漏らし、すぐに瞼を閉じる。
不謹慎にも、その仕草が妙に色っぽいと感じた柳漣は、己を諫めるように頭を振った。
「あっ、そう言えば……」
自分は彼の寝間着姿を見たことがない。それ以前に、持っているかどうかも怪しいものだ。
訊くだけ無駄と判断した柳漣は、急いで自分の部屋に戻ると、クローゼットの中からきちんと畳まれたパジャマの上下を持ち出した。素材は通気性が良く吸水性の高い綿だ。
「多分サイズは大丈夫だと思う。自分で着替えられるかい? 無理なら手伝うけど……」
「馬鹿にするな……貸せ」
雅臣はぎろりと睨みつけて着替えをひったくると、シャツのボタンを外し始める。
本心を言えば、着替えることすら億劫だった。しかし、自分が抵抗した場合に発揮される、柳漣の馬鹿力を知っているので、ここは大人しく従う。
一方の柳漣も、ストリップショーを目の前にして、平時であればチャンスとばかりに押し倒すところだが、流石に今はそうもいかなかった。極力、目を向けないようにして、ベッドメイクに専念する。
「……君はひとりじゃない。具合の悪いときは甘えていいんだ」
さりげなく呟いた柳漣の言葉に、雅臣は何とも複雑な表情を浮かべたが、彼に背を向けた柳漣がそれに気付くことはなかった。
着替え終わった雅臣は、最後に掛けっ放しだった眼鏡を脱いだ服の上に置くと、ふらつく足でベッドに向かった。すぐに柳漣の介助が入り、整え終えたばかりのそれに横たわる。普段の彼か
らは想像もつかない程、従順な姿に、柳漣は思わず「いつもこうなら良いのに……」と、心の中で呟いた。
「すぐに氷を持ってくるから、今のうちに体温を測っておいてね」
掛け布団をしっかり直すと、電子体温計を差し出す。それを見た雅臣は、げんなりとした顔で抗議の目を向けた。
「このぐらい、別にどうってことはない」
「ダメ、ちゃんと計って!」
有無を言わさない厳しい口調に、雅臣は渋面のまま、体温計を受け取った。低い溜め息をひとつつくと、布団の中に引き込む。
柳漣はその様子を確認してから、急ぎ足で台所に戻り、今度は氷枕の準備を始めた。

「雅臣、入るからね」
返事を待たずに、柳漣は寝室のドアを開ける。手には氷枕と洗面器を抱えていた。
「熱、どうだった?」
「……38度7分」
淡々とした雅臣の言葉に、整った眉をしかめた。明らかに「微熱ですね」と流せる値ではない。
それだけ出ていれば、まともに歩くのも辛いはずだった。
「凄い熱じゃないか。……いつから具合が悪かったんだい?」
「さあな。一昨日ぐらいからじゃないか」
まるで他人事のように呟く。
自分のことに無頓着な人間なのは分かってるつもりだったが、ここまで無関心だと呆れを通り越して、感心したい気持ちになった。
「自分の身体のことだろう。もっと大切にしないと……」
窘めると同時に、彼の異変に気付かなかった己の不甲斐なさを悔しく思う。
「だから医者に行って、解熱剤を打った」
「…………」
根本的な部分で、認識にずれがあるようだ。人はそれを「治療」ではなく「対処」と呼ぶ。
「貸せ……血管に近い方が体温は下がる」
雅臣は頭の下に敷こうとした氷枕を素早く取り上げると、首の付け根に当てた。熱のせいで額には粒状の汗が浮かんでいる。
柳漣が濡らしたタオルでそれを拭おうとすると、顔を背けて抵抗した。
「あのね……僕におとなしく看病されるつもりはないわけ?」
「俺は頼んでいない」
平時よりも言葉を交わしているのも、随分とおかしな話である。これだけ軽口が叩けるなら、まず問題は無いのだろう。
「……何がおかしい」
無意識のうちに口元を綻ばせた柳漣を、むっとした顔で睨み返すと、彼から奪ったタオルで顔を拭い、枕元に放り投げた。
「いや、なんでもないよ」
柳漣は微笑を浮かべたまま、籐の椅子の前に立つ。そこに散乱した雅臣の服を探ると、煙草とライターを抜き取った。
「おいっ……」
「これは預かっておくよ……ドクターストップだ。何か食べるものを用意してくる」
抗議の声は完全に無視する。合わせて灰皿になりそうなものが無いことの、確認も怠らない。
ストックが部屋の何処かに置かれているならば、無駄な行為でしかないが、とりあえずの意思表示を見せつけて、部屋を出た。

消化を考えて、食事には薄目に味付けた雑炊を用意した。いつものことながらに雅臣はこれを拒否したが、少しだけで良いからと、強引に食べさせる。
「売薬だけど、飲まないよりはマシだと思う……」
屈辱的で不本意な食事を終えると、柳漣は小瓶から白い錠剤を取り出して、水の入ったグラスと共に差し出した。効果は期待していないが、せめて、睡眠導入剤代わりになれば良いと思う。
雅臣の寝付きは悪く、睡眠は浅い。しかも寝酒は癖になる。この状態でアルコールの摂取を許すわけにはいかなかった。
「もう充分だろう……? いい加減、出て行ってくれ」
空になったコップを突き返すと、うんざりした様子で柳漣を見遣る。
「今日はここで付き添ってもいい?」
「邪魔だ。俺に眠って欲しいなら出て行け」
この反応も十分に予想圏内だ。
「分かった。僕はリビングにいるから、何かあったら遠慮無く呼んでね」
雅臣は何も言わず、布団を襟元まで引き上げると、そっぽを向いた。
彼が自分を呼び出すことは無いだろう。だが、それでも一向に構わなかった。
「雅臣、おやすみ……」
柳漣はもう一度、布団がきちんと掛かっていることを確認してから、部屋の電気を消すと、静かに寝室のドアを閉めた。

人気の無いリビングは、妙に寒々しかった。
カーテンの隙間から、柔らかな朝陽が射し込んでいる。すっかり朝だった。
「…………」
窓際に置かれた無人のソファーが、柳漣の瞳にはやけに寂しく映って見えた。
そこに雅臣がだらしなく寝ている姿が、この部屋の日常に溶け込んでいたことを、改めて痛感する。
柳漣はリビングのエアコンを弱めにセットしてから、自室に戻ると、ようやく仕事着でもある
和服から、ゆったりとしたシャツとスラックスに着替えた。正直、そんなことを気にする余裕も無かった。
長い髪を適当に束ねながら、玄関の新聞を抜き取ってリビングに戻ると、主のいないソファーに浅く腰掛ける。
膝の上に広げたブランケットは、煙草の匂いが染み付いていた。

 
             *  *  *

遠くに聞こえる水の音で、柳漣は意識を取り戻した。
「……っ? 寝てしまったのか……」
膝元には広げたまま皺になった新聞。いつの間にか眠り込んでしまったようだ。
遮光カーテンの向こうはすっかり明るくなっている。壁の時計を見ると、間もなく正午だった。
「そうだ、雅臣っ――!」
慌ててソファーから飛び起きると、雅臣の寝室に向かう。ベッドはもぬけの殻だった。
行き先を案じるより早く、起き抜けに聞こえた水音の正体に気付いた。どうやら、シャワーを浴びられる程度には回復しているようだ。
「痛たた……」
不自然な姿勢のまま眠ってしまったせいで、全身の筋肉が凝り固まっている。まだ、昨晩の酒が完全に抜けきっていないのか、胃も重い。
柳漣は大きく身体を伸ばすと、二日酔いと病み上がりの身体に優しそうなメニューを考えながら、台所に立った。

「おはよう。もう大丈夫なのかい?」
「ん、ああ……」
普段通りのシャツとスラックスを身に着けた雅臣が、リビングに顔を出した。肩に掛けたタオルに、濡れた髪から水滴が滴り落ちる。
嫌な予感がした。
柳漣はとっさにシャツの裾――元々皺になっているので気にする必要はない……を素早く掴むと、その場に引き留める。
「まさか……その身体で『仕事』に行くわけじゃないだろうね」
「熱は下がった」
予想を裏切らない同居人の返答に、深い溜め息をつくと、険しい表情で向き直った。
「ダメだ! そんなの一時的なもので、すぐにぶり返すってば!」
「俺の身体だ。大丈夫かどうかは自分で決める」
「そうやって倒れるまで働く気かい? そんなにお金が大事なわけ?」
「世の中には金が無ければ守れないものだってある。……お前には一生分からん」
悟りきったような雅臣の物言いに、柳漣は静かな怒りをおぼえて、唇を震わせた。どうしてこの男は、いつも自分の好意を無下に踏み捻るのだろうか。
「ああ、理解できないね。バカ雅臣っ!」
「莫迦で結構――」
雅臣の尻ポケットから電子音が鳴り響く。携帯電話の着信音だ。
「……チッ」
電話の持ち主は、液晶に表示された発信者名を見るなり短く舌打ちすると、電話を持ったまま自室に籠もった。柳漣に聞かれたくない類の電話なのだろう。
「喜べ。今日の『仕事』はキャンセルだ」
数分後、相変わらずの仏頂面で部屋から出てきた雅臣は、何か言いたげな柳漣の顔を見て、ただ一言、そう告げた。
「え……?」
「お前の望み通り、今日はおとなしくしておいてやる」
説明の足りない言葉から、相手の都合で予定が流れたのだと予想する。柳漣にとって、これは非常に喜ばしいことだった。
「そう。……じゃあ、たまにはゆっくり朝食を食べようか」
嬉しそうな柳漣の言葉に、雅臣は不服そうな顔をするが、黙って自分の席に着いた。

食後には、コーヒーの替わりにカフェオレが出された。
席をダイニングのテーブルからソファーに移すと、忙しさのあまり、借りたまま積みっぱなし
になっていたDVDを並んで鑑賞する。以前、店の常連客が勧めてくれた作品で、数年前に話題になった恋愛映画だ。
てっきり嫌がるとばかり思っていた雅臣は、黙って画面を見つめていた。意外ではあったが、迂闊に冷やかせば、そこで彼が中座することは想像に難くない。柳漣はそのことには触れず、時折、彼の様子を横目で覗う。
普段であれば、口元か指先で煙を上げている煙草が、今は何処にも見当たらない。昨晩、ライターと共に柳漣が取り上げたままだった。
「…………」
画面の中で繰り広げられる恋の行方よりも、隣の男が何を考えているかが気になって、柳漣は映画の内容に集中できなかった。

静かに画面が暗転して、スタッフロールが流れはじめる。雅臣は終始無言で無表情だった。
「……ね、やっぱり煙草が無いと口寂しい?」
柳漣は少し意地悪な笑みを浮かべて、雅臣に顔を向ける。その気になれば強引に奪い返すなり、予備を持ち出すことは可能なのだから、本気で吸うつもりは無いのだろう。
「分かっているなら訊くな」
むっとした表情で、鋭く睨み返される。
「寂しいなら……」
逞しい首に両手を絡めると、そっと顔をすり寄せた。
「あまり近付くな。風邪が感染(うつ)る」
「雅臣の風邪なら大歓迎だ。誰かに感染したほうが、早く治るって言うじゃない」
「断っておくが、俺は看病しないからな」
「いいよ……」
重ねた唇に、昨晩のような異様な熱は無い。柳漣はゆっくりと体重をかけて、そのまま雅臣をソファーに押し倒した。髪留めが外れて、長い髪がさらりと広がる。
「雅臣……」
唇を離すと、組み敷いた男を愛おしそうに見つめた。洗いざらしの髪に、細い指を絡める。
「…………」
雅臣は虚ろな瞳で天井を見上げていた。そこに感情の色を見ることは出来ない。
――何かが違う。
微妙な態度の変化を、柳漣は見逃さなかった。
病み上がりの人間に手を出すのは気が引けたが、今ならば、受け入れてもらえるかもしれない。
そう思うと、抑えが効かなかった。
今度は角度をつけて深くくちづける。煙草の香りがしないキスはやけに新鮮で、夢中で貪った。
顎の無精髭を撫でながら、首元に軽く噛みつくと、雅臣は低い呻き声を上げた。間髪入れず、シャツのボタンに手を掛ける。
「……それ以上はダメだ」
ボタンに掛けた指が、手首ごと掴まれて宙に浮いた。
「どうして?」
「お前は客じゃない」
あっけにとられた柳漣の隙をついて、雅臣は身体を引き離すと、ソファーから起き上がった。

雅臣は手ぐしで乱れた頭髪を撫でつけると、椅子の背に掛けてあった上着に袖を通した。
「ちょっと、今日はキャンセルなんだろう……?」
「出掛けない、とは言っていない」
上着の襟元を適当に正す。
「待って。……君の借金はあと幾ら残っているんだい?」
「そんなことを訊いてどうする」
冷ややかな双眸が、柳漣を見下ろした。
「これでも結構貯金はあるんだ。纏まった額を出せる。きっと助けになると思う」
「お前も俺を金で縛って、飼うつもりか」
「そんなつもりは……」
冷淡な声に、柳漣は続けるはずだった言葉を呑み込んだ。捉え方次第では、そういう意味にも為りかねない。否定は出来なかった。
「願い下げだ」
短く吐き捨てて上着のポケットを探る。そこに煙草が無いことを思い出すと、悪態をついた。
「雅臣……僕に出来ることは無い? 何だっていいんだ」
「ひとつだけある」
「それは何?」
「……これ以上、俺に構うな」
言葉を失って立ち尽くした柳漣には目もくれず、雅臣はハンガーに吊されたコートを掴むと、足早に部屋を出て行った。

窓から射し込む陽射しが、茜色に染まり始めている。
柳漣はソファーに身体を預けたまま、飾り人形のように硬直していた。
「早く片付けないと……」
片付けないと、どうなると言うのだろう。
そうだ、自分も仕事に行く支度をしなければならない。
ガラステーブルには、空になったマグカップが2つ並んだままだった。柳漣はのろのろと立ち上がると、それらを流しに運ぶ。
「あ……」
ふいにガステーブルの隅に置かれた、煙草とオイルライターが目に入った。昨晩、雅臣から取り上げたものである。柳漣は何となくそれを手に取ると、1本だけ拝借して火を点けた。

――自分に彼を救うことは、出来ないのであろうか。
或いは、「救いたい」という想いすら、ただの偽善に過ぎないのであろうか。

知れば知るほどに、雅臣との距離感が広がっていくのを感じ、柳漣は絶望的な気分に陥った。
じわじわと胸に広がっていく苦い煙に、思わず顔をしかめると、まだ殆ど吸っていないそれをシンクに押し付けて消した。

 
Chapter 10 その手は掴めない -Sick heart-
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「後編」と銘打ちながら、長さが「前編」の2倍あるのは、単に橘の技量不足です。
ほんのり甘めのはずでしたが、結局、最後はいつも通りの展開に……。
柳漣には「世話女房」という言葉がしっくりときます。
こんなに健気に尽くしてくれる彼を足蹴にする雅臣には、いつかバチが当たれば良いと思います。
(2007/5/21)

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