[Whose is your mind?]
December 14th,200X
雅臣は自分のことを語らない。
一緒に暮らすようになって2週間と数日。
彼について知ったことといえば、朝食は食べない、アルコールの銘柄には拘らない、晩酌の延長戦で酔い潰れてソファーで眠る……それに運転中しか眼鏡を掛けないことぐらいだ。
歩く不摂生の見本市みたいな男である。少なくとも柳漣は、彼がアルコール、カフェイン、ニコチン以外の物質を摂取している姿を見たことが無かったし、用意した客間のベッドも使われた形跡はなかった。
一度、雅臣が眠っている隙に、テーブルに置かれた眼鏡のレンズを覗いたことがある。あまり度が強くなかったことからして、視力はそんなに悪くないのかもしれない。
「いつも、随分と早く仕事に行くんだね」
この日もやはり手を付けられることの無かった朝食を片付けながら、柳漣はソファーの背に凭れ掛かる広い背中に目を向けた。
「どうしようが俺の勝手だ。お前にとやかく言われる筋合いはない」
紫煙と共に、ぶっきらぼうな言葉が返される。
「でも、時間を持て余すんじゃない? もっとゆっくりしていけばいいのに……」
雅臣の仕事は深夜タクシーのドライバーだ。その稼働時間は名前の通り、夜から早朝にかけての時間帯である。
にも拘わらず、毎日、決まったように昼過ぎには部屋を出て行った。
彼の性格や行動パターンを見るに、出勤時間ぎりぎりまで部屋でごろごろしていたとしても、何ら不思議ではない。
だからこそ、似つかわしくない几帳面な行動が、柳漣は気になって仕方がなかった。
「俺には俺の時間の潰し方がある。余計な口出しをするな」
雅臣は短くなった煙草を灰皿に押し付けると、柳漣を鋭く睨み付ける。
常に仏頂面で不機嫌そうに見える彼であるが、今は明らかに怒っていた。
漂いはじめた嫌な空気に柳漣は押し黙り、コミュニケーションと呼ぶには、あまりにお粗末な会話に終止符が打たれる。
点けっ放しになったワイドショーの呑気な音声だけが、リビングに虚しく響いていた。
スチール製のドアが重い音を立てて閉まる。
いつも通り、雅臣は何も言わずに、マンションの部屋を出て行った。
素知らぬ顔で流しに立っていた柳漣は、洗い物の手を止めると、急いで自分の部屋に駆け込んだ。コートと財布を掴んで玄関に向かう。
マンションの敷地を出ると、小走りで幹線道路に出て、タクシーを探す。仕事柄、タクシーの方が利便性が良いので、自分の車は引っ越しの際に処分していた。
信号2つ分の待ち時間で、流しのタクシーを拾うことが出来たのは、まず幸運といえよう。
シートに滑り込みながら、白髪の目立つ壮年の運転手に、雅臣が出入りしている営業所の住所を告げた。
渋滞に巻き込まれない限りは、そう大差ない時間で追いつく計算だ。
車がゆっくりと走り出すと、柳漣はシートに身体を預けて瞼を閉じた。
世の中、知らない方が幸せなこともある。
ましてや、今、自分が探ろうとしていることは、間違いなく触れてはいけない類のものだ。
だが、そうであれば尚更知りたくなるのもまた、人間の愚かさであった。
(これじゃ、まるで浮気調査だ……)
いっそ興信所にでも駆け込んだ方が、早い上に確実かもしれない。
しかし、今の柳漣は雅臣のプライベートに介入出来る立場では無かった。彼との関係は自分が一方的に押し付けた、ただのルームメイトである。
浮気どころか、見方によってはむしろ自分の方がストーカーとみなされても仕方のない状況だ。
雅臣が交際している女性と逢っているのだとしても、それは彼の自由だった。
(俺は何を確かめたい……?)
女の存在について、それとなく匂わせていたのは、あの日――契約を結んだ朝……だけだ。
以来、柳漣がどんなに訊ねても、曖昧に濁すだけで、否定も肯定もしなかった。
だが、その身体には紛れもない情事の証が刻まれて続けている。理由は何であれ、誰かと肉体的な関係を結んでいることだけは、間違いない。
胸の中に、どす黒く澱んだ、醜い感情が渦巻いている。人はそれを嫉妬と呼ぶ。
聞き出せないなら、この目で確かめるまでだ――――。
何処かに車を止めて、居眠りを決め込んでいるか、或いはパチンコ屋でくすぶっていてくれればそれで良かった。自分も安心して本来の仕事に戻ることが出来る。
あまりに身勝手で、傲慢な願望に、柳漣は瞳を閉じたまま苦笑を浮かべた。
営業所の駐車場には予想通り、雅臣の車が駐まっていた。
運転席に人影は見えないところからして、当人は建物の中にいる可能性が高い。
「……しばらくこのままで待ってもらえるかな?」
運転手も何かを汲んだようで、黙って頷くと、建物の入り口が目視可能でかつ、目立たない場所に車を移動して、ハザードランプを点けた。
柳漣は窓に頬杖をついて、断片的に飛び込んでくる業務無線に耳を傾けながら、車窓の景色をぼんやりと眺めていた。
10分後、雅臣が建物から姿を現した。
「雅臣……?」
そのあまりに変貌ぶりに、柳漣は思わず自分の目を疑った。
彼が身に着けているのは、いつものくたびれたスーツの上下ではない。きちんとプレスされた一目で高価と分かるデザイナーズスーツに、光沢のあるシャツを合わせていた。
顎の無精髭は相変わらず鎮座しているものの、荒れ放題の頭髪は、きちんと整えられている。
その姿はさながら、同伴に向かうホストのようだった。
雅臣は建物を出たところで一旦立ち止まり、煙草に火を点ける。やはり見覚えのない、黒のロングコートのポケットに両手を突っ込んで、通りに向かって足早に歩き出した。
駐車場の隅に駐めた自分の車には、見向きもしない。
「運転手さん、この辺で一番近い駅って何処?」
柳漣は運転手の簡潔な道案内を頭に叩き込んだ。
「有り難う。釣りは要らないよ」」
料金メータを一瞥して一万円札を差し出すと、車を降りる。
運転手の困惑する声が聞こえたような気がしたが、彼は振り返らなかった。
誰かを尾行するのは、生まれて初めて経験だ。
日本人離れした柳漣の容貌は、周囲の目を嫌と言うほどに惹き付ける。とことん不向きな役柄といえた。
素人ながら、尾行に気付かれぬようにと、十分な距離を確保しつつ後を追う。やはり向かった先は地下鉄の駅だった。
券売機に並ぶ雅臣の背中を、待ち合わせの人混みに紛れて遠目に見守る。
休日によく電車を利用する柳漣は、乗り降り自由なICカードを愛用しているので、切符を購入する必要はなかった。
見失わないぎりぎりの距離を保って、ゆっくりと改札を抜ける。
ホームに下りて、周囲を素早く見渡すと、売店で新聞を買う雅臣の姿が目に入った。
(新聞ならうちでも取ってるのに、なんでわざわざ……)
浮かんだ疑問に自分なりの答えが出るよりも早く、電車がホームに滑り込んで来た。
ラッシュの時間帯ではないものの、車内は学生を中心とした乗客で、それなりに混雑しているようだ。
空いていたらどうするか? という心配が杞憂に終わり、柳漣はほっと胸を撫で下ろした。
ドアが閉まる寸前に、隣の車両に乗り込むと、窓越しに彼の姿を確認する。
雅臣はドアに身体を預けて、買ったばかりの新聞に目を通していた。
途中でJRに乗り換えて、再び彼がホームに降りたのは新宿だった。
新聞をホームのゴミ箱に投げ入れ、西口改札を抜ける。
向かう先は高層ビル群。どうやらその一角にあるシティホテルが目的地のようだ。
柳漣は自分の読みが外れなかったことに、思わず呪いの言葉を吐いた。と同時に、好奇心からこの場に来てしまったことを、後悔しはじめていた。
だが、ここまで来た以上、事実を確認しないまま引き返すことも出来ず、死刑宣告を待つ虜囚になった気分で、虚しい尾行を続けていた。
雅臣はホテルのエントランスを潜ると、慣れた足取りで、2階のラウンジに向かう。
窓際の席に座る女性が、近寄った影に気付いて、微かに顔を上げた。
三十代半ばぐらいであろうか。柳漣でも目を見張る程の美人だった。
女性は開いていた文庫本を閉じると、席を立った。嬉しそうな顔で、雅臣に話しかける。
一方の雅臣も、自分には見せたことのない柔らかい笑顔でそれに応えていた。耳もとで何やら囁くと、女性は頬を染めて頷いた。
雅臣の左手がテーブルの伝票を掴み、反対の手は彼女の肩を抱き寄せる。それは至極自然で、慣れた仕草だった。
ウエイターにルームナンバーを告げて、支払いを部屋につけると、そのままふたりは高層階用のエレベーターホールに消えていった。
何の為に……? なんて考えるまでもない。
周囲の喧噪が、遥か遠くに聞こえる。
望み通りの揺るぎない現実を突きつけられて、硬直した柳漣だけが、その場に取り残された。
* * *
憂鬱な気持ちとは裏腹に、店の方は盛況で、柳漣がマンションに戻ったのは、夜もすっかり明けた頃だった。
同居するようになってから、彼が仕事帰りに雅臣を呼び出す頻度は減っていた。呼び出したところで、断られる確率の方が高かったし、部屋に戻ればいつでも顔を見ることが出来たからである。もっともこの場合、寝顔か仏頂面の二者択一ではあったが。
リビングのドアを開けると、安いアルコールと煙草の香りが柳漣を出迎えた。
点けっ放しのテレビが、天気予報とニュースを機械的に繰り返している。
窓際のソファーでは、いつも通りに雅臣が手足を投げ出して、寝息を立てていた。
全身に染み込んだ酒と煙草のすえた匂いに混じって、今朝は女の香りがするような気がした。
「雅臣……」
昼間見た彼の姿が、柔らかい笑顔が、脳裏を横切る。
彼が着ているのは見慣れたワイシャツとスラックスであるし、床に脱ぎ捨てられた上着も昼間の物ではない。
「……んっ」
苦しそうな呻き声を漏らすと、寝返りをうつ。その拍子、大きくはだけた胸元に柳漣の目は釘付けになった。
「――――っ!」
そこには真新しい鬱血の痕が刻まれていた。
誰が? 勿論、昼間の女性が残したと考えるのが自然だ。
おそらく彼女が雅臣の恋人なのだろう。美しく聡明そうな女性だった。年齢的にもきっと釣り合うし、客観的に見ても似合いのカップルだと思う。
だが柳漣は、何処か本能的な違和感を覚えていた。それを嫉妬という単語で括ってみるものの、やはり腑には落ちず、瞼を閉じて頭をゆっくりと振る。
頭の動きに合わせて、長い髪がさらりと揺れた。
一緒に暮らすようになって2週間と数日。
新しく分かったことが、もうひとつ。
雅臣には別の顔があり、それを柳漣の前では隠そうとしている。
「……どっちが本当の雅臣なんだい?」
柳漣は雅臣の顎にそっとくちづけると、床に落とされたブランケットを掛け直した。それからテレビとリビングの電気を消し、自分の部屋に戻った。
Chapter 8 知らない横顔 -The first day-
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雅臣の秘密・その2(前編)です。
長くなったので分割させていただきました。
ホテルのシーンが個人的にはツボなのですが、MLとしてあるまじき展開のような気がしないでも……(汗)
(2007/4/16)
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