[It was Pandora’s box that he opened.]
November 16th,200X
バスルームから、シャワーの水音が絶えること無く響いている。
柳漣はクリーニングから引き取ってきたばかりの服を脱衣所に置くと、台所に向かい朝食の支度を始めた。
冷蔵庫に並んだ食材を目で追いながらも、昨晩の光景が脳裏に鮮やかに蘇る。
彼は本当に覚えていないのだろうか……?
酔い潰れた雅臣を、引き摺るようにしてマンションまで連れ帰り、自分の寝室に押し込んだのが夜中の1時過ぎ。
「ほら、僕のベッド使っていいから……」
繁華街から連れ出されたのが、よっぽど不満だったらしく、大男はタクシーの中からずっとくだを巻いていた。
「るせっ、放せ! 俺はまだ飲み足りねぇんだ…………」
介助しようとした腕を乱暴に振り解く。
あまりの反抗的な態度に業を煮やした柳漣は、雅臣の両肩を押さえると、弾みを付けてベッドに押し倒した。
鈍い音と共に、大柄な身体が勢いよくマットに沈む。
「……おいっ!」
柳漣は間髪入れずに、彼に馬乗りになると、その動きを封じた。
白銀色の長い髪先が、シーツの上にさらりと広がる。
「――シーツは替えてある。文句は無いね」
華が触れ合いそうな程の至近距離を保ったまま、普段の彼からは想像もつかないような、ドスの利いた冷ややかな声で言い放った。
別に不測の事態を見越していたわけではない。シーツとベッドカバーは出掛ける前に交換するのが休日の習慣だった。
「…………」
紫水晶の透き通った瞳が、泳ぐような目線を絡め取る。
豹変した柳漣の態度に、少し酔いが醒めたのか、雅臣はおずおずと口を開いた。
「……え?」
「水……もらえないか?」
掠れた声で呟く。アルコールで焼けた喉が、引き攣るように痛み、思わず顔をしかめた。
「ほら、やっぱり飲み過ぎだ」
柳漣はいつも通りの柔らかい微笑みを浮かべると、長い指で彼の頬を優しく撫でる。
牙を抜かれた猛獣は、不愉快そうに鼻を鳴らしたが、それ以上抵抗する素振りは見せず、瞼を閉じた。
「いいよ、ちょっと待ってて……」
組み敷いていた雅臣を解放すると、静かにベッドから下りて台所に向かう。冷蔵庫を開けて、新しいミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
「お待たせ……」
足早に戻った彼を出迎えたのは、ベッドの上から響く、規則的ないびきだった。
「雅臣……?」
ほんの数分前と寸分変わらぬ姿勢のまま、眠っている大男の肩を揺すってみるが、反応は無い。
「やれやれ、取りに行かせてこの様か……ホント、いいご身分だね」
ペットボトルをヘッドボードに置くと、しばらくの間、無防備で豪快な寝顔を見つめていた。
彼と初めて会った夜、寝顔を曝していたのは自分の方だ。
でも今はこうして自分が彼の寝顔を――日付を跨いでしまったとはいえ、日に二度も見ている。
「…………」
どうして彼のことが気に掛かるのか。世話を焼いてしまうのか。
「気紛れ……なんかじゃない」
柳漣にはその理由が痛いほどに分かっていた。
諦めたはずの願望が、急激に現実味を帯びてきた瞬間でもある。
顎の無精髭を愛おしそうに撫でながら、恍惚の表情を浮かべた。
依然、雅臣が目を覚ます気配は無い。
整った指先が顎から上にゆっくりと滑り、そして渇いた唇へ到達する。
目覚めないなら、意識が無いのなら、それらは何もしていないのと同義になる――。
自分が酷く背徳的な行為をしようとしている気がして、背筋がぞくりと震えた。
顔の脇に手をつくと、静かに唇を重ねようとする。
「……んっ」
唇が触れ合う寸前、雅臣が僅かに顔を逸らす。それはほんの微かな動きだったが、柳漣を我に返すには充分すぎる程の効果があった。
「…………」
顔を離すと同時に、奇妙な罪悪感が胸に込み上げてくる。
この部屋には自分と彼以外誰もいない。それでも背後を確認せずにはいられなかった。
短い溜め息をついて頭を振ると、改めて雅臣の寝顔に目を向ける。
「それにしても……本当に酷い……」
雨と埃、その他良く分からない汚れにまみれた雅臣の姿は、呆れを通り越して、むしろ痛々しかった。
この男は休日の度に、こんな状態で街を彷徨っているのだろうか。
ふいに急激な寒気に襲われ、柳漣ははじめて自分たちが、雨に濡れたままであることを思い出した。
濡れた衣服は着実に体温を奪っていく。
雅臣にしてもそれは例外ではなかった。まだアルコールが残っているうちは平気かも知れないが、このまま放置して、風邪でもひかれたら目覚めが悪い。
せめて服を脱がせて、顔と身体を拭いてやろうと思った。服もクリーニングに出しておけば、比較的早い時間に仕上がるだろう。
「我ながら、とんだお節介だよね」
それでも放って置くことなど出来なかった。
自嘲気味に呟きながら、とりあえず自分の着替えは後回しにして、湯を張った洗面器と清潔なタオルを用意する。
雨で未だ湿っているシャツのボタンに指を掛けると、手早く外していった。雅臣は時折こそばゆそうに身体を動かすものの、目を覚ますことはなかった。
柳漣はまだ知らない。
それが禁断の箱を開けるに等しい行為であるということを……。
「えっ……」
ボタンを全て外し、シャツをはだけた瞬間、柳漣は思わず目を見開いた。
「雅臣、君は一体……」
焦げ臭い匂いが鼻をつき、柳漣は現実に引き戻された。
コンロの火に掛けっ放しになっていたフライパンから、煙がもうもうと上がっている。
慌てて火を止めると、厚めにスライスしたベーコンを敷いて軽く両面を焼き、片手で2個の卵を割り落とした。
「……凄い煙だな」
声のした方を振り向くと、元の服に着替えた雅臣が、怪訝な顔をしていた。
クリーニングのお陰で、いくらかましになっているものの、服自体がくたびれていることに変わりは無い。
「あっ、すぐ食事になるから……」
「要らん」
濡れた髪をタオルで乱雑に拭いていた手を止めて、不機嫌そうに吐き捨てた。
「……ちょいと寝坊が過ぎた。俺はもう行くから構わなくていい」
手ぐしで適当に髪を整えながら、寝室へと向かう。
「あっ、待って……」
コンロの火を止めると、柳漣も急いで彼の後を追った。
「話があるんだ」
「悪い、今は時間が無い」
柳漣の制止など意にも介さず、サイドテーブルに並べられた数少ない所持品を、ポケットに押し込んでいく。
「……っと……」
訊きたいこと、確かめたいことが山のようにあった。
だが、何処から切り出せば良いのか判断が付かず、つい逡巡してしまう。
その間にも雅臣の身支度は調っていく。
「芹沢サン、家は何処なんだい?」
辛うじて言葉に出来たのはそれだけだった。
「はぁ? ……別に何処だって構わないだろう。アンタには関係ない」
「でも、ここからどうやって帰るつもりなんだい?」
「おいおい、どれだけ俺が送りに来たと思ってるんだよ……何ならタクシーでも拾うさ」
幹線道路は近い。5分も歩けば私鉄の駅もある。
この時ばかりは、マンションの立地条件の良さを呪いたくなった。
「色々と世話になった。これは貰っていくよ」
煙草の箱を軽く掲げると、雅臣は足早に玄関に向かった。慌ててその背中を追い掛ける。
「じゃあな」
「あっ……雅臣っ!」
呼び止める間もなく、スチール製のドアが重い音を立てて閉まった。
フライパンの上では、出来上がったばかりのベーコンエッグが、美味しそうな香りを漂わせていた。
Chapter 5 空白の時間 -Lost memory-
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どこまで書いたものかと、構成の問題でかなり悩んだ章です。
色々と消化不良気味だと思います……が、現時点ではお許し下さいませ。
(2007/4/1)
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