[Worst holiday, Best night]
November 15th,200X
その夜、柳漣は雨の降りしきる、繁華街の路地裏を歩いていた。
久し振りの休日は天候に恵まれず、彼は一日の大半を映画館で過ごした。
平日ということもあって、どの作品も空席が目立った。取り立てて観たい作品の無い柳漣は、上映時間の合う作品の中から、適当に2本選続けて観ると、映画館を後にした。
夕食は外食で済ませてしまうことに決め、夜の帳に覆われはじめた繁華街の中心部へと足を伸ばす。
雨は人足を遠ざける。
普段なら往来の人と、客引きでごった返している通りも、閑散としていた。
しばらく周囲をぶらぶらとしながら、やがて街外れにある、馴染みの店――やはり悪天候のせいか、客はまばらである――で、軽い食事を取りながら、観たばかりの映画についてマスターと語り合った。
ようやく店の外に出た頃には、23時を少し回っていた。
相変わらず、雨は降り止む気配を見せない。
柳漣は傘を広げると、地下鉄の駅に向かって、裏通りを歩きはじめた。
狭く薄暗い裏通りは、一見様お断り風の小料理屋に安っぽいスナック、ネオンがけばけばしい風俗店がひしめき合い、澱んだ空気を生み出している。
普段ならば、タクシーで流してしまう様な距離だ。雨で足元が悪いなら尚更である。
だが、今日の柳漣は違った。
華やかだが、造り物のような乾いた日常に嫌気がさして、時折こういった、汚い街の空気を吸いたくなることがある。
己の欲望に忠実で、嘘で飾り立てながら、それを嘘と認める者たちの街。
彼もこの街の住人と同類だった。
柳漣は現在、赤坂の高級料亭を切り盛りしている。
母親から受け継いだそれは、政界や著名人に使われることも珍しくないが、時代の変化には逆らえず、経営は決して楽とは言えない状況であった。
そこで彼は持ち前の美貌を最大限に利用して、老若男女を問わない常連客の獲得に勤しんだ。
幼い頃から半強制的に仕込まれてきた、礼儀作法と伝統芸能が、さらに自身を助けることとなり、この時ばかりは母に感謝した。
懸命に努力した。店を守るためならどんな汚いことでもした。
それが夜の世界に身を置くということだ。綺麗事を並べていくだけでは決して生き残れない、弱肉強食の世界。
どんなに煌びやかな着物を纏って、化粧を施し、見せかけだけの美しさで取り繕ったところで、己の心の闇まで隠すことは出来ない。
だから一見不釣り合いにも思える、この薄汚れた街が、彼は決して嫌いでは無かった。否、嫌いになることなど出来るはずがなかった。
「おや……」
柳漣はふいに足を止めると、小首を傾げた。湿気を含んで重くなった髪が、背中で揺れる。
切れ長の目は、数メートル前方にある、スナックの勝手口に向けられていた。
ずらりと並んだ業務用のポリバケツの間から、何か人の足のような物が生えている。
大方、酔い潰れたならず者が、影で寝ているのであろう。
このまま放っておいても夜が明ければ、生ゴミと一緒に道端へつまみ出される様な存在だ。取り立てて彼が気に掛ける必要はない。
普段なら気にも留めない光景のはずだが、何故か胸に奇妙なざわつきをおぼえ、柳漣は人影にゆっくりと歩み寄った。
そこには彼の予想通り、薄汚れた格好をした男がポリバケツのひとつを抱きかかえるようにして、眠っていた。
「――っ!」
男の顔を見るなり、柳漣は端正な眉をひそめて息を呑む。
「芹沢……雅臣……」
一呼吸置いて、心の中で何度となく呟いた名前を、初めて声に出した。
ゴミ溜めの中で、だらしない寝顔を曝しているのは、彼が最近贔屓にしている、個人タクシーの運転手……芹沢雅臣、本人だった。
無造作に伸ばされた頭髪は、雨に濡れて顔面に張り付き、がっしりとした顎は無精髭で覆われている。
手入れを怠ってこうなっているわけでは無く、いつだってそうだ。柳漣は仕事明けの後部座席から、幾度となくこの顎を見つめていた。
シャツもスラックスも雨と泥にまみれて、実に酷い有様だった。シンプルなフレームの眼鏡は何処にも見当たらない。
傍に立つだけで、煙草と安酒のきつい匂いが鼻をつく。
やはり今日は、タクシーを拾わなくて正解だった。
常人なら目を覆って足早に立ち去りたくなるような、陰鬱な光景であるにもかかわらず、柳漣はその場で小躍りしそうになる衝動を必死に抑えていた。
「……随分と変わった場所で眠るんだね」
聞き覚えのある、耳障りの良い声に、雅臣はゆっくりと頭を持ち上げた。
暗灰色の虚ろな眼差しが、柳漣の顔を捉える。
「……んっ……アンタ……何処かで……」
混濁した意識の下で、懸命に思い出そうとしているようだ。頭が痛むのか、濡れた頭髪を乱雑にかき乱していた。
「服……」
「ああ、そう言えば、いつも和服だったね」
ジャケットの裾をつまみ上げると、柳漣は薄い笑いを口元に浮かべる。
仕事の時は料亭の若旦那らしく、大概和服だった。そのほうが客の反応も良い。
「そうか。アンタ…………の……」
ようやく雅臣は、最近付いたばかりの、美しい常連客を思い出した。呂律の回らない舌で、彼の自宅マンションがある街の名前を呟く。
「芹沢サン……覚えててくれたんだ」
「これでも一応、仕事だからな……」
雅臣は大きな伸びをすると、店の壁にどっかりともたれかかった。
「しかし、奇遇だ……」
無意識にポケットを探り、煙草を引き抜く。が、雨に濡れたそれが、煙を上げることはない。
酔った拍子で、何処かにぶつけたのだろう。右肩と左足が鈍く痛んだ。
「本当に奇遇だね。……仮にもハンドルを握る人間が、こんなところで酔い潰れているとは、普通、誰だって思わないよ」
「生憎と今日は休業だ。タクシーを頼みたければ、営業所に連絡してくれ」
役に立たなくなった煙草を、手の中で握り潰しながら、雅臣は忌々しげに吐き捨てた。
「そうだね」
柳漣は片手を差し出すと、雅臣が立ち上がるのに手を貸した。
「ひどい……これじゃ濡れ鼠だ。家まで送ろう」
「余計なお世話だっ!」
柳漣の申し出に、雅臣の顔色がみるみる蒼白になる。
身体に回された柳漣の腕を、乱暴に振り解く――が、当人の認識以上にアルコールが回っているようだ……おぼつかない足元でアスファルトの上を数歩よろめくと、今度は肩に担ぐような形で支えられてしまった。
「ダメだ。雨に濡れたままじゃ風邪をひくよ」
華奢な身体の何処にそんな力があるのか、柳漣は自分よりも体格の良い大男を半ば引き摺るようにして、表通りに連れ出すと、片手を挙げて流しのタクシーを拾った。
「おいっ、俺は別に……」
「いいから乗って!」
抵抗する雅臣を後部座席に押し込むと、続いて自分も乗り込んで、運転手に行き先を告げた。
それはいつもと変わらない、柳漣の自宅マンションの番地だった。
Chapter 3 雨の路地裏 -Rainy day-
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この企画で最初に浮かんだ光景が、雨の薄汚い裏通りで、
ポリバケツを抱えて酔い潰れた雅臣と、それを見かねて彼を強引に回収する柳漣でした。
祝! お持ち帰り成功(笑)
(2007/2/12)
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