[True reason to have loved you.]
December 25th,200X
数多の神を信奉するこの国において、クリスマスとは2つのイベントに集約される。
ひとつは、恋人たちが互いの関係を――主に性的に深めるための口実。
もうひとつは、子供たちが、サンタクロースに願い事をしてから、指折り数える夜の終着点。
柳漣にとってもこの日は、特別な、譲れない用事があった。
都内でも有名な高級住宅街の片隅に、その豪邸は存在した。
坪単価を計算するだけでも気が遠くなるような土地を贅沢に使った、平屋造りの豪勢な母屋。
明治時代に建てられたと言われている、茶室と離れを繋ぐ、長い渡り廊下。
色鮮やかな錦鯉が悠々と泳ぐ池を中心に造られた、広大な日本庭園。
そしてそれらを取り囲む、歴史を感じさせる、しっかりした造りの門。
柳漣がこの豪邸の門を潜るのは、年に2回しかない。
駅前で拾ったタクシーを降りると、まずコートの襟と裾を正した。それから両手を空ける為、一時的にと足元に置いた、大きな袋を小脇に抱え直す。
真紅の袋には、カールした金のリボンが巻かれていた。
傾き始めた夕陽が、門扉に長い影を映している。
自宅マンションを出たのは早朝であるにもも拘わらず、いざ行くべきか否かと、街中をぶらつきながら悩んでいるうちに、気がつけばこんな時間になってしまった。
「高峯(たかみね)」
門の脇に取り付けられた、古びた表札には、そう墨で書かれていた。
柳漣は門を潜ると迷いのない足取りで、冬支度の整った寒々しい日本庭園を抜けていく。
向かった先は母屋の玄関だった。
純和風の玄関の脇には、大きなもみの木が植えられている。情景と見事なまでに不釣り合いな大木は、色とりどりのオーナメントや金銀のモールと綿の雪で飾り立てられて、立派なクリスマスツリーに仕立て上げられていた。
「こんにちは……」
黒塗りの引き戸を開けて、玄関に踏み入ると、柳漣は遠慮がちに声を掛けた。この家を訪れる度、一番緊張する瞬間でもある。
「わーい、ゆんちゃんだ!」
予想に反して、彼を出迎えたのは、一目散に駆け寄って来る小さな影だった。
軽い衝撃と共に、膝丈ぐらいまでしかない幼女が、コートの裾にすがりつく。
「メリークリスマス、花音(かのん)」
抱えていた袋を差し出すと、幼女は満面の笑みを浮かべた。
「ありがとー、ゆんちゃん! あけてもいい?」
「勿論」
にっこり微笑むと、幼女はおぼつかない指付きで、袋のリボンを解き始める。
中にはピンクのドレスを着た、白いウサギのぬいぐるみがちょこんと座っていた。
「わぁ……うさちゃんだ、かぁーいい!」
プレゼントにウサギを選んだのは、ただの偶然だ。ほんの数日前に見た、気まずそうな同居人の姿を思い出したからではないと思いたかった。
自分よりも一回り大きなぬいぐるみを、よろけながらも嬉しそうに抱え上げる。
「パパー、ゆんちゃんにうさちゃんもらったー」
「こら、ゆんちゃんじゃなくて、柳漣叔父さんだろう」
廊下の奥から低い声が響き、少し遅れて大きな影がのっそりと姿を現す。
その瞬間、柳漣は自分の心臓を鷲掴みにされるような気がした。咄嗟に胸を押さえて、足元をじっと見据える。
「いいの、ゆんちゃんは、ゆんちゃんだもん!」
甲高い花音の声が、やけに耳に付いた。
柳漣は小さく息を吐いて乱れた呼吸を整える。恐る恐る顔を上げてみると、男はふてくされた愛娘の頭を、大きな掌で撫で回していた。第一次反抗期、真っ直中なのだろう。
「花音、ちゃんとお礼は言ったのか?」
「うん。ゆんちゃんに『ありがとー』っていったよ」
「よし、いい子だ」
何てことのない親子のやりとりを眼前で見せつけられて、柳漣はひとり、蚊帳の外に置かれているような気持ちになった。
「せっかくだから、ママにも見せて来い」
「うん!」
ぬいぐるみを引き摺るようにして、廊下の奥に向かう娘の後ろ姿を見送ると、気怠そうな双眸が、ようやく柳漣を捉える。
「……よお、久し振りだな。生きてたか」
約半年ぶりとなる再会の、第一声はそんな言葉だった。
「ご無沙汰……しています」
「しすぎだ。たまには顔を見せろ」
男の簡潔な言葉に、柳漣は意識せず唇を噛みしめる。表面上では懸命に平静を取り繕おうとしていたが、早くなる鼓動を抑えることは出来なかった。
「清明(せいめい)……兄さん」
日本人らしい、がっしりとした体つきで、背は柳漣よりも少し高い。夜闇色をしたやや癖のある髪は、襟足に掛かる程度まで伸びているが、別に拘って伸ばしているわけではなかった。
一言で言えば無精なのである。昔から自分の身なりには、あまり気を遣わない男だった。
「ん……その……花音の為に有り難うな」
小声でぼそると呟くと、ばつの悪そうな顔をして頭をかきむしる。
柳漣が兄と呼んだ、この屋敷の主でもあるその男は、彼が契約で縛って部屋に捕らえている男と、何処となく面影が似ていた。
「いえ……」
2人の間に奇妙な沈黙が漂う。
重い空気に耐えかねて、先に目を逸らしたのは柳漣の方だった。
高峯(たかみね)グループ。
旧財閥の流れを汲んだ、複合企業体で、その資本力は国内でも有数のものである。
急死した先代・高峯齋臥(さいが)の後を継いだ、現高峯家当主にしてグループの会長は、まだ三十代の息子だった。
高峯清明――柳漣の義理の兄である。
柳漣は齋臥の後妻である、如月藍漣(あいれん)の連れ子だった。
老舗の高級料亭を切り盛りしていた藍漣は、客として訪れていた齋臥に見初められて、自由奔放な彼女と何処か波長が合ったのだろう。すぐに深い仲になった。病で早くに妻を亡くしていた
齋臥は、季節が2度移り変わると藍漣に求婚し、彼女もこれを承諾した。
高峯の名前の重さを嫌った母の希望で、籍は入れなかったものの、数年前までは、柳漣も母と共にこの豪邸で暮らしていた。だから、ある意味で高峯の家は「実家」と呼べる場所だった。
齋臥は厳格で無骨な男ではあったが、血の繋がっていない柳漣を実の息子のように可愛がってくれた。しかし重い心臓病を患っており、幸せな再婚生活は極僅かな時間で幕を閉じる。
愛する夫を亡くした母は、喪が明けると、駅前の高級マンションに居を移し、柳漣も時間を置かずに屋敷を出た。齋臥の庇護を失って、2人の居場所が無くなったわけではない。少なくとも柳漣にとってはそうだった。
ある事件がきっかけで、彼は高峯の家を、そして何より清明の元から離れた……。
神父の穏やかな祈りの声が、室内に木霊する。
この家のクリスマスは、れっきとしたキリスト教徒の祭りだった。
敷地の中には、純和風の邸宅に不釣り合いな教会がある。清明が前妻の為に建てさせたものだ。彼も齋臥同様、最初の妻を病で失っていた。
敬虔なクリスチャンだった彼女の影響を受けて、今では彼も立派な信徒のひとりである。
場に集まった、家族、親戚、使用人、グループの役員にその家族が揃って、聖書を読み、賛美歌を歌う。この時ばかりは柳漣もにわか信者となって、聖書を開いて参列者に合わせていた。
(原罪とは、よく言ったものだ……)
自分の両手は嘘と罪にまみれている。
どんなに祈りを捧げたところで、決して洗い流せない、許しを請うことすらできない、重い罪。
斜め前の席に座る義兄の横顔をじっと見る。
かつて、狂おしいほどに愛した男――。
きっかけは覚えていない。
気がつけば、彼を独占したくて、自分だけを見て欲しくて、その顔に、その身体に触れたくて仕方が無くなっていた。
清明も柳漣を愛してくれたが、それは世間一般で言うところの「弟」としての愛情であり、彼が望む形に到底なり得ないのは、当然の話とも言えよう。
やがて「後継者」として、家の仕事を手伝うようになった清明は、取引先の娘と結婚することとなる。外野から見れば、れっきとした政略結婚だったが、当人たちにとっては、出会いのきっかけがそうであったというだけで、心から愛し合っている様子だった。
柳漣も義兄の結婚を機に、禁じられた想いを断ち切ろうとした。義兄が掴んだ幸せを、自分が阻むことは許されない。彼とて2人を祝福したかった。
しかし、そんな彼を皮肉るかのように、生来、身体の弱かった義姉はわずか2年で他界した。
諦めたはずの恋心は、やがて激しい執着へと変容する。
そしてあの夏の日、悲劇は起こった……。
厳かなミサが終わると、別棟に会場を移し、ささやかなクリスマスパーティが催された。
本日の主役となった小さな姫は、レースをふんだんにあしらった純白のドレスに身を包み、撮影係に名乗りを上げる親族に取り囲まれている。
花音は、清明と再婚した女性との間に産まれた娘だ。
「娘がいるところまで、一緒だなんて……」
もうひとりの花の名前を持つ「娘」と会ったことはないが、年齢も、姿もそんなに変わらないのではないか。何となくそう思った。
ワイングラスを傾けながら、姪の傍らに立つ義兄を盗み見る。
昔から変わらない、ぼさっとして気怠そうな表情からは、何の感情も読み取れなかった。
しばらくすると、挨拶回りをしていた妻が戻って来る。彼が選んだ2人目の伴侶は、成人してやっと数年経ったばかりの若い女性だった。寡黙で大人びていた前妻とは対照的に、いつも元気で明るく、笑顔の似合う女性である。
清明は穏やかで優しい表情を浮かべて、彼女をねぎらう。たったそれだけで、この歳の離れた妻を深く愛しているのが、痛いほどに分かった。
時折、娘と妻にだけ見せる、彼の笑顔を見る度に、柳漣は溜まらなく胸が締め付けられた。
自分にあの笑顔が向けられることは……永遠に無い。
清明に深い悲しみをもたらした一度の離婚と、柳漣にとってさらなる不幸をもたらした再婚。
全部、割り切ったつもりでいた。
代替となる存在を手に入れた今、「彼」と向き合っても大丈夫だと思っていた。
それなのに……。
この胸に広がる痛みは、一体何だというのだろう……?
パーティの喧騒が、酷く遠くに聞こえる。広い敷地の中、柳漣の居場所は何処にも無かった。
親族への挨拶もろくに済ませぬまま、パーティの途中で、柳漣は屋敷を後にした。
まるで義兄の影から逃げ出すかのように――――。
* * *
明け方の薄暗い部屋に、凍えるような外気が流れ込む。
重いスチールの扉が、乱暴に閉められた。
「んがっ……?」
安酒を呷って、ソファーに横たわっていた雅臣は、普段と様子の違う家主の帰還に、朦朧とした意識の下で首をかしげた。いつも通りであれば、例え浅い眠りといえども、深酒に酔った彼が目を覚ますことは、まずあり得ない。
鉛のように重い身体を無理矢理起こして、玄関の方をじっと見据えた。
照明を落としたリビングに満ちる、アルコールの強い刺激臭。それは雅臣が摂取したものだけではない。
「……お前……どうしたんだ」
カーテンの隙間から漏れる朝陽に、柳漣の上気した顔が照らし出される。確かめるまでもなく酒に酔っているようだ。幽鬼のようなおぼつかない足取りで、ふらふらと窓際に歩み寄る。
「…………」
何も言わず、そのままソファーに倒れ込んだ。
「おいっ!」
中途半端に上体を起こしていたせいで、柳漣の体重を受け止めきれず、結果、雅臣は彼に押し倒される形となった。
「雅臣が悪い……」
アルコールを含んだ熱い吐息が頬をくすぐる。
「あ……? お前、いきなり何だよっ……」
掠れた声で呻きながら、のし掛かった柳漣を引き離そうとするが、それよりも早く、両肩を強い力で掴まれた。肩に食いんだ指の部分から、鈍い痛みが広がっていく。
「……いるから……悪いんだ!」
「おまえっ……何わけのわからんことをっ――」
「何をしたって構わないんだ! 雅臣は『あの人』じゃないんだから……」
譫言のように呟きながら、皺だらけのシャツの襟を掴むと、乱暴に引き上げる。
「雅臣も俺を捨てるのか!」
「よせっ――!」
その瞬間、雅臣は本能的に悟った。
柳漣は自分という鏡を通して、別の「誰か」を見ているということを。
自分への異様なまでの執着は、その「誰か」の「代替」に過ぎないということを……。
「柳漣……?」
ぷちんと何かが切れる音がして、シャツのボタンが弾け飛んだ。はだけて露わになった鎖骨に熱い唇が押し当てられる。雅臣は反射的に首をのけぞらせたが、行為はそこで止まった。
「おい、柳漣……いい加減、重いぞ……」
自分の上で動きを止めたままの銀髪に指を差し入れて、身体から引き離そうとする。
「…………ん」
返されるのは、アルコールにまみれた微かな寝息。
「……ちっ、潰れてやがる」
泥酔した姿を見られることは日常茶飯事だったが、酔い潰れた姿を見たのは初めてだった。
「ったく……胸の上で眠られるのは、女だけにして欲しいもんだ」
奇妙な同居生活をはじめて、ひと月と少し。新年の足音が聞こえはじめる冬の朝。
雅臣は柳漣もまた、重い咎を背負っていることを知った。
おそらくそれは、自分がここに捕らわれている理由と無関係ではない。
「畜生……何だってんだよ」
何故か裏切られたような苛立ちをおぼえて毒突くと、胸の奥がちくりと痛んだ。
(第一部 完)
Chapter 12 残影 -His and his Christmas-
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これにて第一部完結となります。
やっと清明兄さんを出せました。
全然、話の区切りがついてないような気もしますが、プロットを切った時点から
こうすると決めていたので、素直に従います。
第二部は、登場人物も増えて、年明けからのお話となります。
(2007/10/13)
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