[Time begins to go by.]
January 15th,200X
世界は静寂に満ちていた。
息が詰まるような、光も音もない世界。
混濁した意識の海から、魂が抜けるかのように、現実という名の海面にふわりと浮上する。
身体の支配を取り戻して、最初に鼻をついたのは、安っぽい香水の残り香だった。
全身に広がるひどい倦怠感と闘いながら、俺は重い瞼を開いた。
「ん……」
低い呻き声をひとつ。
上体を起こして、ヘッドボートに埋め込まれたデジタル時計に目を向けると、青緑色をした発光ダイオード製の数字は「15:58」と並んでいた。
ご丁寧なことに、寝過ごすことがないようにと、アラームがセットされている。
俺は肩からずり落ちたシーツをたぐり寄せると、俯せに寝返りをうち、柔らかな羽毛の枕に勢いよく顔を埋めた。
ひとりで寝るには、いささか広すぎるベッドだ。
つい数時間前まで、共にシーツを温めていた相手は、今頃、何食わぬ顔で夕餉の支度をしているのだろう。
夜の「出勤」まであと1時間近くはある。俺にとっては、残り僅かな休憩時間だ。もう少しだけ、この心地好いまどろみに浸っていたかった。
瞼を閉じた途端、低い振動音が耳に飛び込んでくる。携帯電話だ。
サイドテーブルに放り投げてあったそれは、マナーモードに設定されているため、きっちり2コールで沈黙した
ものぐさに腕だけを伸ばして携帯電話を掴むと、糊の利いたシーツの中に引きずり込む。
「やれやれ……」
着信履歴に残った名前を見て、思わず顔をしかめた。どうやら休憩時間は終わりらしい。
これで、シャワーを浴びて、最初に連絡を取らなければならない相手が決まった。
「厄介事じゃなければいいが……」
俺は寝癖で乱れた頭をかきながら、ベッドから起き上がった。
* * *
「若旦那、お客さんが見えてますが……」
襖の向こうから、番頭の声が聞こえた。
番頭とはいっても、柳漣が先代から店を継ぐと同時に就任したばかりの青年である。齢は柳漣よりも2つ下だと記憶している。
「誰?」
弱々しく、遠慮がちな声に、帳簿の確認をしていた柳漣は顔を上げた。
「分かりません。品の良い、年配の女性ですが……」
戸惑うような番頭の言葉に、ある人物の姿が脳裏をよぎる。
懐から携帯電話を取り出して、液晶画面を眺めるが、着信の形跡はなかった。
もっとも今、店に訪れているのが「彼女」であるのなら、事前に連絡を入れてくるほうが珍しい。
「うん、分かった。奥座敷に通してもらえるかな……失礼のないようにね」
襖をじっと見据えながらそう言うと、柳漣は帳簿を畳んで立ち上がった、
柳漣が襖の前に立つと、脇に控えた番頭が頭を垂れて、静かに襖を引いた。
「どうもお待たせしました……」
上座に通されていた人物を一瞥し、柔らかな微笑みを浮かべる。
「……すぐにお茶を用意します」
「待って」
柳漣は、一礼して踵を返そうとした番頭の肩を軽く押さえた。
「お茶よりも日本酒がいいかな。今日は冷えるから熱燗で」
「まだ開店前ですが……お持ちして、宜しいのですか?」
「うん、その方が彼女は喜ぶだろうから……そうでしょう?」
柳漣が小首を傾げると、彼のものよりも一段深い、紫紺の瞳が細められた。
「……ご無沙汰しています。母さん」
如月藍漣(あいれん)。
柳漣の実母で、この店――『梅見月(むめみつき)』の前オーナーでもある。
『梅見月』の前身は江戸時代の後期から続く、老舗旅館であった。
しかし、時代の流れにそぐわないと、先々代が思い切って、料亭へと方向転換を図った結果、読みは見事に当たり、今では政治家や企業の重役が好んで使う、隠れ家的な名店となった。
「教育が行き届いていなくて、すみません」
「いいのよ。この店も代替わりしたのだから、私の顔を知らなくても無理はないわ」
柳漣に店を譲る際、藍漣は「年寄りの戯れ言が余計な軋轢を作る」と、番頭を含めた従業員を一掃してしまった。
簡単に替えのきかない板長だけが、唯一の例外として店に残った。
彼は柳漣が幼かった頃の良き遊び相手であり、何かと理由を付けては厨房に潜り込もうとする彼に、料理の基本を教えた人物でもある。
「これは大女将。お元気そうでなによりです」
猪口と徳利を載せた盆を持って、厳つい顔の大男が顔を出した。
「花島……貴方も変わらないわね」
「お陰様で、この若旦那にも良くしてもらってますから」
板長の逞しい二の腕を見て、藍漣は懐かしそうに笑った。
人相が悪く、一見、近寄りがたい雰囲気を纏っているが、心根は優しい男であることを、彼女は誰よりも知っている。
「ふふ……今日はお芝居を観てきたのよ。近くに来たついでに、ちょっと様子を見に来たの」
藍漣は昔から、自由奔放な性格だった。
2番目の夫を亡くし、隠居してからは、輪を掛けて好き勝手に振る舞っているらしい。
籍こそ入れていないが、高峯齋臥の未亡人である。それなりの贅沢をして、遊んで暮らすだけの金は十分にあった。
「余生を楽しむのは結構ですが、男遊びだけはほどほどにしてくださいね」
「あら、遊びなんかじゃないわ。私はいつだって本気よ」
「……だから困るんです」
母子だけあって、藍漣も天性の色気を持ち合わせている。それは年を重ねても一向に衰える気配を見せなかった。
若い頃は一流の芸妓だったという彼女は、外見だけでなく教養も深い。未だに政財界の要人から声がかかることも珍しくはなかった。
柳漣はそんな母親が愛したはずの、自分の父親の話を聞いたことがない。話さないということは、知らなくてもいい、もしくは知らない方が良いということだ。
十代の多感な時期は、どんな人物であったかと思いを巡らすこともあったが、夜の世界には夜の世界の掟がある。
今では花柳界の人間の過去を詮索するのは、野暮だとまで思うようになっていた。
「どうします。今夜は席を用意しますか?」
猪口を手に取った藍漣に、柳漣が酌をした。これも親孝行の内に入るのだろうか。
「そうね、久し振りにゆっくりさせてもらうわ……」
「分かりました」
藍漣の場合、ただの客ではない。
客として座敷に居座って、客の目線から見た店の問題点を指摘する、いわば「監査」の役割を務めていた。
現場から離れたとはいえ、自分の店を案ずる気持ちを失ったわけではない。
柳漣もそんな彼女の好意を無下に出来ず、突然の来訪を好意的に受け入れるのだった。
藍漣は2時間ほど座敷に滞在した後、柳漣を筆頭に、主要な従業員を呼びつけると、改善要望や気になった点を具体的に指摘した。そのどれもが身に覚えのあることばかりで、若い幹部陣は彼女に対して頭が上がらなかった。
「まあ、貴方なりによくやっているとは思うわ。及第点……かしらね」
最後にそう付け足して柳漣を見つめると、にこやかに微笑んだ。
「今晩は自宅に戻られるのですか」
「殿方との約束もないし、そうなるわね」
「分かりました。今、足を用意します。もうしばらくこちらでお待ち下さい」
捕まってくれるといい、と願いながら、柳漣は指先が覚えた番号をコールした。
* * *
柳漣の願いが届いたかどうかは定かではない。
しかし、今晩に限って、無愛想で勤労意欲の極めて低い個人タクシーは、あっさりと捕まってくれた。
柳漣と並んだ和装の女性を見て、雅臣は眉間に皺を寄せる。
「お前……女の趣味、変えたのか?」
「何も知らないクセによく言うよ。勘違いしないで……店のお客さんだよ」
「俺が勘違いする筋合いは無い」
ハンドルに手を置いたまま、雅臣は不満そうに鼻を鳴らした。
わざわざ説明しなくても、藍漣のことだ。雅臣が訊けば自分から息子との関係を喋るだろう。
藍漣が後部座席に乗り込むと、柳漣は風呂敷包みを手渡した。土産にと板長が用意した鮨折りである。
「ちょっと愛想は悪いけど、運転に問題はないから安心して」
「無愛想は余計だ」
間髪入れず、運転席からぶっきらぼうな声が飛び込んで来た。
そんな2人のやり取りに、藍漣はくすりと笑みを零す。
「お願いします、運転手さん……あら」
運転席を覗いた母の顔が、ほんの一瞬、強張ったように見えた。
「どうかしましたか?」
「いえ、何でもないわ」
心配そうな目を向ける柳漣に、藍漣は普段と変わらない、穏やかな微笑みを返す。
「じゃあ、柳漣。お休みなさい」
「はい、お休みなさい」
静かにドアが閉まる。
柳漣は素早く運転席側に回り込んで、サイドウインドウを小突いた。舌打ちしながら雅臣がパワーウインドウを下ろすと、長財布から一万円札を差し出した。
「雅臣、彼女を頼んだよ。僕はまだ店の片付けが残っているから」
「お前の迎えには来ないぞ」
「いいよ、自分で何とかする。今日は遅くなると思うから……」
雅臣は一万円札を無言で受け取ると、メーターを「賃走」に切り替える。
ひとり残された柳漣は軽く頭を下げて、黒塗りのタクシーを見送った。
* * *
宣言した通り、柳漣がマンションの部屋に戻ったのは午前5時を回っていた。
「おや……」
リビングに続くドアを開け、ソファーに座った影を見て呟く。
「起きているなんて珍しいね」
今日は早く上がったのだろう。
そこには仕事から戻った雅臣が、煙草の紫煙を揺らしていた。
テーブルの上には、ビールの空き缶が2本転がっているだけで、これは彼にしては飲んでいない部類に含まれる。
「あまり飲んでいないみたいだし……何かあったの?」
言いながらコート脱いでハンガーに掛けた。ついでに床に脱ぎ捨てられたままの、雅臣の上着を拾い上げると隣に並べて掛ける。
「……柳漣、お前に頼みがある」
柳漣が冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出してリビングに戻ると、黙り込んでいた雅臣が、ぼそりと呟いた。
「君が面と向かって頼み事をするなんて珍しいね。何?」
「しばらくの間でいい。住所を貸してくれ」
「住所? ……ここの住所、ってこと?」
「そうだ。今まで借りていた奴の都合が悪くなった。ヤバイ女に手を出したらしくて、近く海外に高飛びするらしい」
書類上だけとはいえ、自分の住所を預けるには、それなりに信頼が置ける相手でなければならない。柳漣は自分が雅臣にとって「信頼に値する人物」と評価された気がして、嬉しくなった。
「真剣な顔でお願いするから、何かと思えばそんなことか。しばらくなんて言わないで、ずっとここに住んでいいんだよ。住民票だって移してくれて構わない」
「いや、それは出来ない。借りるだけだ」
予想通りの反応だと思いながら、グラスにペットボトルの中身を注ぐ。
「分かったよ。雅臣の好きにすればいい」
「ああ……すまないな」
短く、ぶっきらぼうな言葉の端に、微かではあるが、感謝の気持ちが含まれているのを柳漣は読み取った。
雅臣と一緒に暮らし始めて結構な時間が経つ。
彼に頼みごとをされたのはこれが初めてだし、礼を言われたのも初めてだった。
「雅臣……」
「何だ」
「ううん、何でもない」
グラスの中で揺れる水面を見つめて、柳漣は微笑する。
これを飲んでシャワーを浴びて仮眠を取ったら、玄関とポストの表札を作りに行こうと心の中で決めた。
それを見た雅臣は、さぞやうんざりとした表情をすることだろう。
だが、その顔すらも見てみたいと思った。
Chapter 13 藍漣 -His and her circumstances-
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第二部のはじまりです。
今回はプロローグ的な話となります。
年が明けて、静かに時間が動き出しました。
柳漣はマザコンでは無いと思っていますが、書いていて少しだけ不安になりました(苦笑)
(2008/1/26)
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