[You are my treasure.] by Masaomi Serizawa
December 23th,200X
俺が髭を伸ばすようになったのは、いつからだろうか。
はっきりとは覚えていないが、『裏』の仕事を始めてからだったような気がする。
きっかけは、毎日剃るのが面倒だから。
定着した理由は、その方が女のウケが良かったからだ。
だが、数ヶ月に一度、この無精髭が綺麗に剃られる日があった。
「おや……今日は休みじゃなかったのかい」
いつもと同じ時間にリビングに現れた柳漣が、怪訝な顔で俺を見つめる。
「休みだ」
だらしなくソファーにもたれ掛かって、煙草の煙を揺らしているところまでは、普段と変わらない朝の光景だ。
しかし、それからが違いすぎた。
まずはソファーに隣接した、ガラステーブルの上。
吸い殻が山盛りになった灰皿はともかく、いつもであれば数本は転がっているビールの空き缶も、洋酒のボトルも、赤ペンでチェックの入った競馬新聞も見当たらない。
明け方、仕事を終えて部屋に戻ってから、俺はアルコールを一切口にしていなかった。従って酒臭くもない。
ベージュのチノパンにモスグリーンのセーターといった、年相応な格好も目新しいのだろう。
或いは整髪料で収まりの悪い頭髪を整えていることが、斬新なのかもしれない。
柳漣はしきりに目を瞬くと、戸惑いを隠せない様子で髪をかき上げた。
「髭……剃ったんだ」
一呼吸置いて、ようやく発したのはそんな言葉だった。
「悪いか」
「そんなことはないけど……何だか、変な感じだね」
言いながら、ソファーの前に回り込もうとして、そこに鎮座する先客を視界に捉えると、ますます歪な顔をした。
「……ぷっ」
次の瞬間には吹き出す。
俺の隣にはは首にピンクのリボンを巻いた、大きなウサギのぬいぐるみが座っていた。
淡いピンクの布地で出来たそれは、右手にやはり布で出来たニンジンを握り、首のリボンには『Merry Xmas』のタグをぶら下げている。
「成る程。今日はデートなんだね」
「違う」
俺は短くなった煙草をもみ消すと、ソファーを立った。
ウサギを掴んで小脇に抱える。我ながら滑稽な姿だと思った。
「今日は家族サービスだ」
「は……?」
端正な表情から、余裕の色がするりと抜け落ちた。
「娘がいる。……別れた女房が引き取った」
至極簡潔に、彼が知りたがるであろう答えを提示してやる。
柳漣にとって、それはこの上なく残酷な言葉なのだと思う。
だが、遅かれ早かれ俺と一緒にいれば、いつかは知ることになるのだ。
起こってしまった事実は、誰にも変えることは出来ない。
「……時間だ。俺は行く」
硬直したままの柳漣をリビングに残して、俺は部屋を出た。
* * *
一足早い春の到来を錯覚させるような、穏やかで暖かな午後だった。
オープンテラスに降り注ぐ陽射しは優しく、コートが荷物になると思えるぐらいだ。
休日の遊園地。
ジェットコースターの轟音と、乗客の悲鳴が遠くに聞こえる。
絶叫マシーンブームが去って久しいというにも拘わらず、若いカップルがやたらと目に付くのは、クリスマス・イブを明日に控えた季節柄故なのだろう。
「今、付き合っている人はいるの?」
コーヒーの入った紙コップをテーブルに置くと、かつて妻だった女性が微笑んだ。
今は旧姓に戻り、敷島綾子(しきしまあやこ)。
彼女の実家は由緒ある旧家で、当時はまだ、駆け出しの設計士に過ぎなかった俺との結婚には大反対された。良家の子女だ。縁談の相手には不足しなかったのだろう。
しかし、綾子の両親に挨拶に行った時、既に彼女は俺の子供を身籠もっていた。「娘を未婚の母にするよりは……」と渋面のまま証人印は押してくれたものの、駆け落ち同然の状態で一緒になったことは否めなかった。
それから起こったことを考えれば、結婚に反対した両親の判断は正しいと思う。
以来俺は、敷島家の敷居を跨ぐことが出来ない。
「そういう関係じゃないが、世話になっている奴はいる」
俺は腕の中で眠る、愛娘の寝顔を見ながら呟いた。朝からはしゃぎすぎて疲れたのだろう。今はぐっすりと眠っている。
敷島さくら。
桜の花が咲く頃に生まれたから「さくら」。
短絡的とも言われかねないが、この子にはとても似つかわしい名前だと思う。名前と同じ花の色をした頬が何とも愛らしい。
「相変わらずいい加減なんだから……でも、いい人が出来て、ちょっと安心したかな」
綾子は俺と別れた後も実家に戻ることはなく、海外児童文学の翻訳家として立派に生計を立てていた。母は強し、と言うが、なんとも頼もしい限りである。
「貴方、自分のことには本当に無頓着だから。大切にしてね、泣かせちゃダメよ」
「だから、そんなんじゃないって……!」
それどころか、女ですらない。
むきになって荒げかけた声を、慌てて呑み込んだ。さくらを起こすわけにはいかなかった。
「…………」
俺たちは、憎み合って別れたわけではない。
原因は色々とあるが、世間で言うところの『価値観の相違』って言葉で片付けられる。
小さなすれ違いが、時間を掛けて積み重なって、やがて亀裂が入った。
溝は見た目よりも深く、それを埋めようとすればするほどに、互いを傷つけるだけだった。
結論を言ってしまえば、俺に甲斐性が無かっただけのことで、やはり平穏な家庭を持てる類の人間では無かったのだろう。
いつから俺は、彼女と正面から向き合わなくなってしまったのか……。
「私は『母』だけど、貴方の前では『女』でいたかった」
離婚を承諾したあの日、寂しそうに微笑んだ彼女の顔は、今でも心に焼き付いて忘れられない。
決定打となったのは、事業の失敗で負った借金だった。
結婚を決めた半年後、俺は学生時代からの友人と2人で小さな設計事務所を開いた。
周囲の協力もあって、初めのうちこそ、順調に回っていたものの、さくらが伝い歩きを始めるようになった頃から、不況の煽りを受けて、経営が傾き始めた。
融資を受けていた銀行の担当が替わり、資金をごっそりと引き揚げられた。資金という名の血液が無ければ、会社は回らない。
大口の仕事を受けていた得意先が、耐震強度偽造問題に荷担していたことも致命的だった。
一度歯車が狂えば、転落まではあっという間だ。
経理を任せていた友人も、寝る時間を惜しんで金策に走ったが、状況は悪化の一途を辿り、事務所を畳む覚悟を決めた頃には、時既に遅し、負債は莫大な額になっていた。
精神的に追い詰められて、限界に達したのだろう。手元に残ったはずのわずかな資金とともに、友人は蒸発した。
後に残ったのは、俺名義の莫大な借金だけだった……。
友人はサラ金にも手を出していた。
恨み言をぼやく暇があるならば、目の前に積み上がった債務処理をするべきだ。時間が経つほどに被害は大きくなる。自己破産を勧める弁護士もいたが、闇金の連中がそれで引き下がるとは、到底思えなかった。綾子とさくらを巻き込むわけにはいかない。何としても俺のところで食い止める必要があった。
さくらの親権は話し合うまでもなく綾子に委ね、彼女もそれを快諾した。
俺に生活能力が無いことぐらい、他人に指摘されるまでもなく理解している。
状況が状況なので、彼女は慰謝料も養育費も要求しなかった。周りの人間は非常識だと騒いだようだが、完全無視を決め込んで、強引に押し通したらしい。
綾子のことは今でも好きだし大切だが、それは男女の恋愛感情というよりも、むしろ友愛と呼ぶほうが相応しい類のものだ。
互いにやり直しが利かないことは分かっていたし、また、そのつもりもなかった。
明確な取り決めを交わしたわけではない。
だが、別れてからは2、3ヶ月に1回、こうして3人で会うことが、自然な習慣となっていた。
最近ではさくらも言葉が達者になってきて、成長の早さを痛感する。
「雅臣、あのね……」
綾子が何かを言い淀んで俯いた。目尻の小じわが若干目立つようになったものの、清楚で知性的な雰囲気は、一緒に暮らしていた頃と比べても、全く損なわれていなかった。
「ん、何だ」
温くなった自分のコーヒーを一気に煽る。
「私、その……彼氏が出来るかも。まだ、さくらには会わせてないんだけどね」
「そうか。良かったじゃないか」
俺のことを引き摺っているなんて自惚れたくはないが、それでも自分に遠慮して、恋人を作らないのではないかと、勘ぐってしまいたくなるときがあった。
ならば、柳漣との誤解は解かずにおいた方が、良いのかも知れない。
「子供は好きだって言ってくれたから、多分大丈夫だと思う」
「お前が選んだ男なら、間違いないだろう」
「あら? 一度失敗してるのに……?」
「そいつは相手の男が悪すぎただけだ」
自虐的な笑み浮かべる。いつもの癖で、胸元に手を伸ばすが、そこに煙草は無かった。
「貴方はいい男よ。もっと自信を持ちなさい」
かつて一番近いところにいた女性だからこそ、言えることがある。
だからこそ、話せないこともある。
綾子は俺の『裏稼業』を知らない。彼女にだけは、絶対に知られたくなかった。
「早いな……もう幼稚園か」
腕の中の無邪気な寝顔に目を落とす。俺は自然に微笑んでいた。
「信じられる? 再来年はもうランドセルを背負っているのよ」
「いや、信じられんな……」
このときだけは、年相応の、何処にでもいそうなごく普通の男に戻ることが出来た。
金の為に偽りの愛を囁き、女に抱かれる、無様な男ではない。
失ったものの大きさに、後で気付いて嘆いても、それと全く同じものを取り戻すことは、絶対に出来ないのだ。
3人で過ごす一時だけが、荒んだ生活における唯一の救いだった。
――唯一のはず……だった。
楽しい時間は、瞬く間に流れる。
綾子の自宅がある閑静な住宅街まで、車で送り届けて『家族の休日』はお開きとなった。
「パパ、よいおとしを……なの」
夕陽がさくらの小さな頬を茜色に染め上げる。
この子は母親似だ。将来はきっと美人になる。俺に似なくて良かったとしみじみ思う。
「なんだ、もうそんな大人みたいな言葉を覚えたのか?」
屈み込んで目線を合わせると、少し癖のある髪を優しく撫でた。……これは俺の血か。
「うん!」
ためらわず父親の胸に飛び込んで来る。自分の血を分けた、世界でただひとりの娘。
真っ直ぐに向けられる、無邪気な微笑み。
たったひとつの心の拠り所。
この笑顔を守る為なら、何でも出来た。どんな仕打ちにも耐えられた。
次に会えるのは、早くとも年が明けてからだ。
相手の男との交際が順調に進めば、いずれは会えなくなる時が来るのだろう。
「さくら、ママの言うことちゃんときくんだぞ」
「うん。パパもいい子にするの」
「こいつめ……」
額をこつりと合わせて、笑う。
あと何回、こうして同じ時間を過ごすことが出来るのかは、分からない。
だが、今はまだ俺がこの子の父親だった、いつか自分でない他の誰かを「パパ」と呼ぶその時まで……。
バックミラーに映るふたりの姿が完全に見えなくなると、俺は出掛け際、ドアポケットに放り込んだ煙草に火を点けた。
さくらの父親は無精髭なんて生やしていないし、煙草も吸わない。
夢の時間は終わった。後は荒んだ日常へと戻るだけだ。
「さて、俺も帰るか……」
何気なく呟いた『帰る』という言葉に口元を弛めると、静かに頭を振った。
Chapter 11 髭のない休日 -Calm holiday-
back << index >> next
やっとここまで辿り着きました。雅臣の秘密・最終章です。
企画当初から、雅臣はバツイチ・子持ちと決まっておりました。
普段クールな彼の、親バカな一面が何ともいえません。
さりげなく昔の職業も明らかになりました。ちょっと意外に思えるかも……。
柳漣にとっては、相変わらず報われない展開が続いて、どうにもすみません。
(2007/7/5)
コメントを残す