[Whose is your mind?]
December 15th,200X
理由なんて分からない。
気がつけば、いつもと変わらない時間に部屋を出た同居人の後を、柳漣は追っていた。
心なしか昨日よりも幹線道路を流れる車が多いような印象を受ける。空のタクシーを捕まえるには、いささかの根気を要した。
ドアが閉まりきるより早く、営業所の住所を告げると、柳漣はシートに身体を深々と預けた。
中年の運転手は料金メーターに伸ばしかけた手を止めて、この美しい乗客を訝しげに一瞥したが、瞼を閉じた柳漣がそれに気付いた様子は無かった。
信号が変わるのを待って、車はゆっくりと発進する。
今日の運転手は、話好きな男だった。
柳漣の容姿について、月並みな語彙でひとしきり褒めたかと思えば、子供の自慢話、妻への文句、私立受験制度の愚痴へとめまぐるしく話題を変えていく。そこに聞き手の意思など、まるで介入する余地はない。
仕事柄、こういったタイプの応対に慣れてはいるものの、今の柳漣にとって有り難いことでは無かった。
途中で降りて、他のタクシーを探すという選択肢が脳裏をよぎったが、時間のロスを考えるとあまり懸命な判断とはいえない。
結局、得意の作り笑顔と共に最小限の相槌を打ちながら、昨日のラウンジでの光景をぼんやりと思い浮かべていた。
同居人は隠れるように外で女性と逢い、身体に情交の痕を刻みつけて部屋に戻った。
確たる証拠を目の前で見せつけられて、これ以上何を知りたいというのだろうか?
往生際が悪いにも程がある。無様を通り越して滑稽だった。
自分は、こんなにも諦めの悪い人間だったのだろうか、と自答する。
思い起こせば、何かに執着したことなど、今までの人生の中であっただろうか。
望めば大概のものは手に入った。だから彼は物にも金にも執着しない。
恋人だって例外ではない。その気になれば男女問わず、相手に不足したことはなかった。
だが、本当にそうなのだろうか……?
果てしない思考のループの中で、意識的に切り離そうとしていた、決して触れたくない、ある人物の顔を思い浮かべると、柳漣は静かに唇を噛んだ。
たったひとつ、例外があった。
どんなに望んでも手に入れることの出来なかった、特別な存在が……。
部屋を出た時間は昨日とほぼ変わらなかったが、車の流れがあからさまに悪い。先刻からやたらと赤信号に引っ掛かっているような気がして、微かに苛立った。
「今日は五十日だからな……やっぱり混むね」
柳漣の気持ちを汲んだように、運転手はぼそりと呟く。
「五十日って、そんなに違うものなの?」
「ああ、違うね」
にやりと笑うと、ルームミラー越しにヤニで黄色く染まった歯が見えた。
これが一般的なタクシー運転手の姿だと、柳漣はおかしな方向に感心してみる。
「お客さん、裏道使ってみるかい? 空いてるって保証はないけどね」
「僕には良く分からないから、一番早く着くと思うルートで任せるよ」
痺れを切らしていたのは乗客よりも、むしろ運転手だったようだ。ようやく信号の変わった交差点を左折すると、すぐに枝道に入った。車一台がやっと通れるだけの路地を、タクシーは結構なスピードで抜けていく。
道に詳しくない柳漣には、これが抜け道になっているか否かの判断はつかなかったが、今しばらくの間、退屈極まりないトークショーが続くことだけは確かだった。
昨日と同じ位置に、雅臣の車は駐められていた。
割り当てが決まっているのか、単に彼が同じ場所を好んで駐めているのかは分からない。だが、何となく後者のような気がした。
柳漣も昨日と同じ場所に車を回してもらって、このまま待機するように言う。
彼は今日も電車で移動するのだろうか。
いや、それ以前に、今日も何処かに出掛けるのだろうか。
連日、恋人と逢い引きをするとは考え難かった。
仮にそうだとすれば、普段は淡々としているくせに、女に関してはなかなかの情熱家だ。
そう思うだけで、胸にどす黒い感情が広がった。
(出て来なければいい。頼むから出てくるな……)
柳漣は祈る気持ちで、建物の入り口を凝視する。
運転手は相変わらず何やらぼやいていたが、彼の耳には殆ど入らなかった。
「雅臣……」
数分後、昨日とは違う、しかしやはり高級ブランドのスーツに身を固めた雅臣の姿を見て、柳漣は儚い期待が無惨に砕け散ったことを悟った。
深い溜め息と共に、両肩をがっくりと落とす。
「……お客さん、芹沢と知り合いなのか?」
「えっ……?」
前方の乗務員証を見ると、そこには雅臣が所属している営業所と同じ文字が並んでいた。偶然にも同じ営業所の車を拾ってしまったらしい。
同僚であれば、互いの顔を知っていても何ら不思議ではないだろう。
「いや、知り合いというか……」
そこまで気が回らなかった。浅はかさを嘆いてはみるものの、既に手遅れだった。
適当な言い訳を探して口籠もっているうちに、目の前で雅臣の車が動き出す。どうやら今日は車で移動する気のようだ。
「彼の後を追って! ……出来る限りでいいから」
思いの外強い柳漣の口調に、運転手は驚いて身体をすくめた。
「ひょっとして、お客さん、探偵だったりするの?」
距離を取って、ゆっくりと車を発進させる。
「えっ、あっ……ちょっと人に頼まれて……」
こんなに無計画で間抜けで派手な容姿の探偵がいるなら、一度見てみたいと柳漣は苦笑した。
第一、特殊な事情でもない限り、尾行に目立つタクシーを使う筈がない。
「まあ、似たようなものかな」
だが、ここは男の勘違いを逆手に取って、素人探偵を装うことに決めた。
妹の友人が雅臣に惚れ込んで、恋人の有無を確認して欲しいと頼まれた、という設定を瞬時に脳内で作り出す。あまりに稚拙で無理のある設定だが、何も無いよりは幾分マシだろう。
この運転手は無駄話が多いのが難点だが、ベテランらしく運転の腕は良かった。上手い具合に間に車を2台を挟む形で、追走を続けていた。
「彼、付き合ってる女性はいるのかな?」
「さあね、でもあの様子だと女はいるんじゃないかな」
男は話好きで噂好きだ。口も決して重くない。上手く誘導すれば、何か有益な情報を聞き出すことが出来るかもしれないと思えば、くだらない雑談も腰を据えて聞く気分になれた。
運転手の話からすると、雅臣が今の営業所に出入りするようになったのは、一年ぐらい前からだという。無愛想で自分のことを語らないのは職場でも同じようだ。
24時間連続で勤務して、翌一日は休みというパターンが営業所の基本体制らしい。曜日の問題で入れ違いになる雅臣との接点はあまりなく、極希に雀卓を囲む程度の付き合いらしかった。
「麻雀の腕はまずまずだが、女には興味が無いみたいだな……そっちの誘いにはまるでノってきやしない」
服を着替えて外出している姿を見たのは初めてだったようで、男の「浮気でもしてるのかね」という言葉には、柳漣も思わず引き攣った笑みを浮かべていた。
雅臣が向かった先はレンタカーの営業所だった。
来客用の駐車スペースに車を駐めると、コートを小脇に抱えて事務所に入っていく。無駄のない動きからして、ここを使うのが初めてでないことは一目瞭然だった。
柳漣は路肩に停めた車の中から固唾を呑んでそれを見守る。しばらくすると雅臣は営業所のスタッフを引き連れて、一台の高級国産セダンの前に立った。
「ああやって、事前に傷の有無をチェックしてるんだよ」
欠伸を噛み殺しながら、運転手は求められてもいない説明を口にする。
車のチェックを終えて、担当のスタッフから鍵を受け取った雅臣は、慣れた様子で運転席に乗り込んだ。
「逢い引きするのに車乗り換えるなんて、案外マメな男なんだな……」
運転手が感心したように呟きながら、サイドブレーキを外す。
探偵ごっこは未だ継続中だ。柳漣が何も言わずとも尾行を続けてくれていた。何より本人に楽しんでいる節がある。
「そういえば……」
信号が赤になるタイミングを見計らって、本線に合流する。
「さっき思い出したんだけど、あいつ何だか裏で怪しい仕事をしてるって誰かが噂してたな。……まあ、うちの業界は後ろ暗い部分の多い連中ばかりだしね。……妹さんのお友達だっけ? あまりお勧めしないよ」
「有り難う。参考にするよ」
やがてセダンは幹線道路を外れ、有名な高級住宅街へと向かう。
今のところ、雅臣が尾行に気付いた様子は無いが、住宅街に入ると車の数が一気に減るのでより慎重になる必要があった。車間も見失わないぎりぎりの距離を保持する。
運転にかなりの神経を使っているようで、男の無駄口も極端に減った。
今回はタクシーという側面が柳漣の尾行を助けてくれた。住宅街をタクシーが走っていて、それを不審に思う人間はまずいない。
ひときわ目立つ豪邸の前で、黒塗りのセダンは停まった。
タクシーは静かにセダンを追い抜いて、ひとつ先の路地を曲がったところで駐まる。
果たしてさっきの豪邸が、昨日の女の家なのだろうか。だとすれば、相手はかなりの資産家ということになる。
「探偵さん、どうする?」
路地を一周回って後ろに着けるか? と聞かれたが、柳漣は首を振ると車を降りた。
彼が知りたいのは雅臣が「何処」に向かうかではない。「誰」と向かうか、なのだ……。
街路樹の影に身を隠して、柳漣はそっと門の様子を覗う。
雅臣はシートを倒して寝ているようだ。角度的に見えないが、きっと口元には煙草をぶらさげているに違いない。その光景を思い浮かべると、妙に微笑ましい気分になった。
エンジンを切っていないところからして、待ち時間はさして長くないのだろう。
門を見つめる傍らで、腕時計をちらちらと確認する。時間がやけにゆっくり進んでいるように
思えてならなかった。
秒針が12の数字を5回ったところで、ようやく着飾った女性が家の中から出てきた。柳漣のいる場所からでは距離がある為、顔までは確認できない。
女性は助手席に乗り込むと、ようやく身体を起こした雅臣に抱きついてキスをした。
低いエンジンの音と共に、黒塗りのセダンが交差点を走り抜けていく。
その瞬間、柳漣は助手席に映った影をはっきりと見た。
「――――!」
年の頃は三十代半ば、やはり美しく、聡明な――しかし昨日とは明らかに違う女性だった。
* * *
シーツの衣擦れと、湿った吐息が、薄暗い室内を満たす。
その日、柳漣は久し振りに女性を抱いていた。
断る理由に困ったことはあっても、欲望を吐き出す相手に不自由したことはない。
携帯電話に残った履歴の中から、後腐れのない相手を気紛れに選ぶ。
自分から声をかけたのは、雅臣と出逢って以来、はじめてのことだった。
組み敷いた女が甘く掠れた声をあげながら、柳漣の名前を譫言のように囁く。
柳漣は柔らかい肌を腕の中に感じながら、今頃、何処かで同じことをしている、彼の姿を思い浮かべた。
胸が苦しくなり女をきつく抱き締めると、背中に真紅のマニキュアを塗った爪が食い込んだ。
やられたから、同じことをやり返す。
まるで子供だった。
身勝手で安っぽい自尊心の為に、誰かを犠牲にして、それ以上に自分を傷つけている。
これは浮気ですらない。元より彼との間には何もないのだから。
柳漣の心を独占しうる人物は、悲しいまでに彼を見ていなかった。
さながら、今、腕の中で嬌声をあげている女を、自分が見ていないが如くに……。
想いは、繋がらない。
Chapter 8 知らない横顔 -The second day-
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雅臣の秘密・その2(後編)です。無駄に引っ張ってしまいすみません。
ただの追い打ちです。ごっそり削っても良いような内容です。これぞまさに蛇足。
そのクセ難産でした。やっぱりMLとしてあるまじき展(以下略)
次でようやく一段落となるはずです。
(2007/4/25)
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