氷雨

  • Posted on 9月 21, 2011 at 10:00 PM

[And the rain turned into snow.]

冷たい雨が降っていた。
人気のない、夜の公園。雨の降りしきる音だけが、ただ静かに響いていた。

ひときわ目立つ、銀杏の大木に寄りかかって、如月柳漣(きさらぎゆうれん)は瞼を閉じたまま、雨に打たれていた。
身に着けているのは、薄手のシャツとスラックスだけという有り体である。
部屋着のまま外に飛び出した彼の体温を、12月の凍えるような雨が、容赦なく奪っていく。
陽の下では燦然と輝く白銀色の長髪も、今は雨にぐっしょりと濡れて、服と頬を濡らしていた。

「……たく、何やってるんだか」
我ながら酔狂だと、柳漣は自嘲気味な笑みを浮かべた。
こんな雨の夜に、好んで公園を散歩する輩がいるわけもない。

 
きっかけは、いつもながらに些細なことだった。
その日も違う香水とシャンプーの香りを纏って戻った同居人に、柳漣は不快の色を隠そうともせず詰め寄った。

彼の『仕事』は理解している。
だが、納得はしていない。

自尊心を切り売りするような裏稼業から、早く足を洗って欲しい一心で、柳漣は何度も救いの手を差し伸べようとした。
が、頑なな態度で拒否されるだけで、溝は深まるばかりであった。
当人が好きで溺れているのだとすれば、差し出した藁は何の意味も持たない。
「どうしようが俺の勝手だ。余計な口出しをするな!」
男――芹沢雅臣(せりざわまさおみ)は声を荒げると、柳漣を鋭く睨み付けた。本気で怒っていた。
「雅臣……」
この男が欲しい。
自分だけのものにしたかった。
犯罪行為すれすれの強引な手を使って、自分の部屋に住ませることには成功したものの、未だ彼の心と身体を繋ぎ止めることは叶わずじまいだ。
「好きで……だって? 金の為にやっているんじゃないのか?」
「そうだ。だが、こんなこと……好きじゃなきゃ続けられないさ」
真っ直ぐに向けられる柳漣の純粋な好意と、不純な欲求に面と向かって、雅臣は残酷な言葉を容赦なく浴びせる。
「……っ」
その腕で、その胸で、その指と唇で……。
自分以外の誰かを抱き、嘘にまみれた甘い言葉を囁いている姿を想像すると、嫉妬と羨望で、胸が締め付けられ、腑の煮えくりかえる想いがした。黒い炎が彼の中で激しく燃え上がる。
札束を積むだけで、他の人間は平気で相手をするくせに、柳漣がいくら払うと言っても一向に相手にしないことが、彼の苛立ちにより拍車を掛けていた。
「あっそう。……もう、雅臣なんて知るもんか!」
半ば自棄なって、部屋を飛び出した。
雨が降っているのに気付いたのは、マンションのエントランスを抜けてからだった。
部屋の鍵はおろか、財布すら持っていない。
啖呵を切ってしまった手前、引き返すことも出来ず、かといって行く当てもなく、ふと気がつけば、この公園で雨に打ちひしがれていたのだった。

来るはずがない。
来られるわけがない。
それでも、彼が迎えに来てくれることを、期待してしまう自分がそこにいた。

「……寒い」
雨がいっそう激しさを増してきた。
吐き出した息が、雨煙に混じって白い霧となって、見上げた漆黒の夜空に溶け込んでいく。
身体は芯まで冷え切り、細い指先は痛みを通り越して、感覚が無くなりはじめていた。
このままでいれば、風邪をひくのも時間の問題だ。

もし自分が肺炎になったら、果たして彼は看病してくれるだろうか……?

だとすれば、それも悪くない。
全身を襲う震えを抑えようと、柳漣は己の身体をきつく抱き締めた。

「……?」
ひときわ暗い影が、蒼白になった柳漣の顔に落とされた。
ほぼ同時に、絶え間なく全身を濡らし続けていた雨が途切れる。
夜闇よりも黒い傘が、彼の頭上に差し出されていた。
「雅臣……」
傘の持ち手を確認することなく、柳漣はその名前を口にする。
「何やってるんだよ、馬鹿」
そこには傘と同じ色のロングコートを纏った雅臣が、いつもの無愛想な表情のまま、立ってい
た。走ってきたのか、僅かに息が上がっている。
「迎えに来てくれたんだ……」
「違う。煙草が切れたから買いに出ただけだ」
柳漣のすがるような視線を感じた雅臣は、露骨に顔を背けたまま、無精髭に覆われた顎を気まずそうに撫でていた。
そんな彼の仕草に、柳漣は長い睫毛を震わせて、くすりと笑う。
「……コンビニは反対側じゃなかったっけ?」
「るせ、自販機だよ、自販機」
休日に彼がパチンコでせしめて来たばかりのカートンが、まだ数箱はテレビの上に積まれていたはずだ。柳漣はそのことに気付いていたものの、あえて口には出さなかった。
「ほら、とっとと帰るぞ」
ぶっきらぼうに吐き捨てると、来た方向に踵を返す。
自分のマンションを「帰る場所」と認めてくれたことが、内心嬉しかった。
「……うん、そうだね」
素早く回された柳漣の腕を乱暴に振り解き、雅臣は歩き出す。
「ひどいな。傘、2本持ってきてくれればよかったのに……」
紳士用の傘とはいえ、大人2人が入るには、かなりの無理があった。
現に雅臣の肩は半分以上、傘の外にはみ出して、雨に打たれている。
「俺はただ、通りがかっただけだ。別にお前を迎えに来たわけじゃない」
「……素直じゃないね」
あしらわれない程度に寄り添いながら、柳漣は小声で呟いた。

「うわ、おまっ……ちょっと待ってろ!」
明るい場所で改めて見た、柳漣の姿は酷いものだった。
服も髪も絞れるほどに雨を含み、全身から滴った水が、足元のタイルに染みを広げている。
そのまま部屋に上がろうとした柳漣を、雅臣は玄関で引き留めると、脱衣所から新しいバスタオルをひっ掴んで、投げ渡した。
むろん、それを洗濯し、畳んでいるのは彼ではない。
「風呂が出来てる。それで拭いたらすぐに入れ」
「ふーん、アナタにしては随分と気が利くじゃない」
これでは普段と立場がまるで逆だ、と柳漣は思った。
案外あれでいて、雅臣は面倒見の良い男なのかも知れない。
「やかましい。風邪でもひかれたら、俺が面倒だ」
低く鼻を鳴らすと、タオルで乱雑に身体を拭きはじめた。一応は傘を差していたものの、柳漣を庇ったせいで、すっかり濡れ鼠だった。
「…………」
柳漣が濡れた髪をぱさりとかき上げる。その艶っぽい横顔にどきりとして、雅臣は露骨に目線を外した。
「ね、雅臣……寒い」
そんな彼の隙に付け入るように、柳漣は熱っぽい目線を絡める。並の人間なら、たったこれだけの仕草で、たやすく彼の歯牙にかかってしまうことも珍しくない。
だが、芹沢雅臣という男に、この手の色仕掛けは通用しなかった。
「なら、とっとと風呂に入るんだな」
苛立った様子で吐き捨てると、足早にリビングへと戻ろうとする。
「待って」
足を止めてゆっくりと振り返る。その双眸は疑念に満ちていた。
「……何だ?」
「そんな目で見ないでよ」
柳漣は雨で素肌に張り付いた、白いシャツを指先でつまみ上げる。
「服……張り付いちゃって、うまく脱げないんだ」
「…………」
玄関に沈黙が漂う。
先に動いたのは雅臣だった。
短く舌打ちすると、柳漣の元に歩み寄り、シャツのボタンに手を掛ける。
無骨な指で、淡々と自分のボタンが外されていく様子に、柳漣は奇妙な興奮を覚えた。胸に熱い衝動が込み上げて、思わず喉を鳴らした。
やがてボタンが全て外され、はだけたシャツが腕から抜き取られる。
「……雅臣」
ふいに名前を呼ばれ、雅臣はわずかに顔を上げた。
その一瞬に生じた隙を彼は逃さなかった。
「……っ」
雨を含んで重くなったシャツが、バサリと床に落ちる。
柳漣は雅臣の首に腕を回すと、体重を掛けて、素早く唇を重ねた。
湿った雨と煙草の混じった香りが、鼻孔をくすぐる。
冷え切った唇の隙間から、熱い舌がねじ込まれる前に、雅臣は柳漣を振り解いた。
「雅臣っ……」
「……後は自分で出来るな」
雅臣は何事もなかったかのようにぼそりと呟き、踵を返すと、今度こそリビングに戻ってしまった。廊下との間を仕切るドアが、乾いた音を立てて閉まる。
後にはただ、半裸のまま言葉を失って立ちつくす柳漣が、取り残された。

 
外は依然、冷たい雨が降りしきっていた。
雨は明け方雪へと変わった。それは、今年最後の雪だった。

(終)

本編連載開始前にイメージを掴みたくて、書いたものです。
この2人の関係が本シリーズの全てといっても過言ではありません。
もっともらしい雰囲気がでているのではないかと……。
(2007/1/25)

 
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