遠い雷鳴

  • Posted on 9月 24, 2011 at 9:44 PM

[Two sins that he committed.]
 
叶わぬ恋に身を焦がすことが、許されないのだとしたら
ああ、神様、どうすれば、あの人を諦めることができるのですか……?

噎せ返るような百合の香りを嗅ぐと、あの夏を思い出す。

地面には、無惨に踏み捻られた、大振りの白い花弁が散乱している。
それはほんの数十分前までは、花束のかたちをしていたものだ。
墓前に供えるはずの、百合の花束だった……。

この日は「彼女」の月命日だった。
ちょうど半年前、霙(みぞれ)混じりの冷たい雨が降る晩に、「彼女」はこの世を去った。

「……どいてくれないか」
久しく彼が発した「人の言葉」はそんな一言だった。
「もう済んだろ……いい加減、重い」
身体の下から響くうんざりしたような声で我に返ると、柳漣は掴んだままの手首を慌てて離した。
それから、組み敷いていた男をまじまじと見つめる。
自分と同じ血を半分ほど分かち合う兄。
同じ遺伝子を持ちながら、容姿、仕草、性格……どれを取っても皮肉なぐらいに似ていない。
「清明……」
胸を圧迫していた重しが外され、男は荒い息をつく。
もっとも呼吸が乱れているのは、そのせいだけではないだろう。
墓地で……彼の最愛の女性が眠るこの地で、つい先刻まで、2人は獣のように交わっていたのだ。
血肉まで喰らいそうなその姿は、まさに獣、そのものだったかもしれない。
「……花」
足元に散らばった花の残骸に目を落として、清明が呟いた。
「え……?」
「花……駄目になっちまったな」
柳漣の眉が微かに顰められる。
自分の身体よりも、使い物にならなくなった花束を思いやる義兄に、彼は掛ける言葉を見つけられなかった。
静かに立ち上がると、中途半端にはだけた着衣を正す。下ろしたての礼服は泥と百合の花粉で酷い有様だった。
「後で新しい物を用意します」
百合は彼女が愛した花だった。華麗で清らかで、出しゃばりすぎない程度に芯が通っている。
まさに彼女を表現するにふさわしい花だ。
「いや……俺が自分で買うからいい」
残された夫は、季節に関係なく墓前にこの花を供えて、彼女の冥福を祈り続ける。肉体が滅びても、彼女を愛する心に揺らぎが無いことは、痛いほどに分かった。

――だから、この手で奪いたくなった……。

式年祭ともなれば話は別だが、月命日に墓前に立つのは、大抵この義兄と2人だった。
無論、それ以外の時でも、忙しい仕事の合間を見て、まめに通っていることは知っている。日常に於ける、彼の無精さを知る者から見れば、にわかには信じられないことだった。
梅雨の空はどんよりとした厚い雲に覆われ、今にも泣き出しそうだ。
そのせいか、門を抜けて以来、自分たち以外の人影を見ることはなかった。
ここには誰もいない、例え何が起こっても、誰も知ることはない……。
死者の冥福を祈る厳粛な気持ちが、どす黒く邪なものへと変貌していく。
柳漣は自分の中に湧き上がった感情に、逆らおうとも思わなかった。

「清明っ……」
気がつけば、楡の大木の下で義兄を押し倒していた。
細い身体の一体何処にそんな力があったのか、自分でも驚くほど、あっけなく彼は組み敷かれ、抱えていた花束が、地面に飛び散る。
「清明っ……」
義弟に名前を呼ばれ、男の瞳がわずかにたじろいだ。
「柳漣、お前……」
手首を押さえつけて、乱暴に唇を重ねる。
もし言い訳を許されるならば、最初は柳漣もそこまでする気はなかった。想いを告げられさえすれば、それで充分なはずだった。
しかし、一度身体が触れれば、全身を駆け巡る熱病のような衝動を抑えることは出来なかった。
「好きだ、ずっと好きだったんだ……」
噛みつくようなキスを繰り返し、懇願するようにその胸に縋り付く。
突然の告白に愕然とした義兄は、勢いに押されて為すがままにされていた。
「っ……止せっ……」
ネクタイを弛められ、カッターシャツのボタンに指を掛けられたところで、ようやく弱々しい拒絶の言葉が紡がれる。
だが、柳漣は気付いてしまった。
言葉の端に潜んだ、肉体への渇望を。
例え心は求めていないとしても、久し振りに触れ合う肌の感触に、彼の身体は悦んでいた。
「嫌だ、止めない」
荒々しいくちづけで、抵抗の言葉ごと呑み込む。
後は衣擦れと荒々しい息づかいだけが、場を支配した……。

     †

空が鈍く引き裂かれるような、雷鳴が轟いた。
少しずつ、しかし確実に嵐は近付いている。
「……車は置いていきます」
交通の便はさほど悪くない。少し歩いて大通りに出れば、路線バスが走っている。タクシーを拾うのも容易であろう。
「貴方も早く戻った方がいい。じき……嵐が来る」
清明は乱れた着衣を直そうともせず、大木に背を預けたまま、曇天を見上げる。
「……そうか」
夜闇を溶かし込んだような暗い瞳。そこには怒りも、恐怖もない。
ただ、虚だけが支配する、ひたすらに悲しい瞳だった。
「貴方たちは……」
漏らしかけた言葉を途中で嚥下し、柳漣は頭を振って踵を返す。
「……先に帰ります」
門を抜けた途端、とうとう雨が降り出した。

(貴方たちは、夫婦揃って同じ目をするんだね。そう――あのときの『彼女』も同じだった……)

   *  *  *

「子供……?」
新しい家族が増える。
世間一般であれば喜ぶべき報告を、重々しい表情のまま義兄は告げた。
「ああ、間もなく3ヶ月だそうだ」
「そう……」
安易に「おめでとう」とは言えない。彼らにはそれだけの事情があった。
「一応、俺なりに気をつけていたつもり……なんだがな……」
いつもの癖で、くわえかけた煙草を慌ててポケットに戻す。しばらくは禁煙を強いられることになるだろう。今のうちから慣れておかねばならない。
義理の姉となった女性は、生まれつき身体が、特に心臓の弱い人だった。
かかりつけの医師からも、妊娠は母体の危険が伴うと、事前に釘を刺されていた。
「……でもまあ、授かっちまったもんは仕方がない。上手くいくよう、神様に祈ってみるさ」
「そう……だね。僕も一緒に祈るよ」
柳漣は薄い唇を噛みしめると、澄み渡った晩秋の空を見つめた。
「3ヶ月……か」

母体を優先すべきなのは、明らかだった。
それでも彼の妻は子供の命を選び、彼もそれに反対はしなかった。
堕胎はカトリックの教義に反する。
結果、ふたつの命はどちらも救うことは叶わなかった。

たった一度、犯した過ち。
残暑の厳しい夜だった。
想い人の愛を一心に受ける彼女が恨めしくて、少しでも彼に近付きたくて、彼女と強引に関係を結んだ。
彼女は柳漣を拒まず、ひたすら悲しそうな瞳を向け、彼に身を任せた。
もし、彼女が命を落とした原因が、自分にあるかもしれないと言ったら、義兄はどんな顔をするのだろうか。
彼女が命を懸けて守ろうとした存在の父親が、自分だとしたら……。
敬虔なクリスチャンだった彼女は自害することが出来ない。自らの手で命を絶った信徒は、煉獄に堕ちるからだ。
真相は分からない。
唯一、知っていたかもしれない彼女は、最期まで真実を告げなかった。
だから柳漣は、何も言わなかった。
今更墓場に持ち込む秘密が増えたところで、どうせ地獄行きは変わらない。これ以上、彼を苦しめる必要はない。

――義姉が亡くなって1年半後。
柳漣が初めて心の底から愛し、慕っていた男は、平凡な庶民の娘と再婚した。
相手はまだ、成人したばかりの学生だった。

   *  *  *

「あっ、ゆんちゃんだ!」
半年ぶりに実家の門を潜った柳漣を、真っ先に出迎えたのは、淡いブルーのワンピースを着た幼女だった。清明の娘……すなわち、柳漣の姪に当たる。
都内の一等地にありながら、広大な面積を誇り、多くの植物が茂るこの庭で、今日はささやかなガーデンパーティが催されていた。
夏の太陽は水平線に近付きつつある。そのお陰で、うだる様な暑さが、幾分かはましになっていた。
「こんにちは、花音(かのん)」
「ゆんちゃん、いらっしゃい!」
まだはっきりと呂律の回らない姪は、柳漣のことを「ゆんちゃん」と呼ぶ。
「こら、花音……柳漣叔父さんでしょう?」
「やだ、ゆんちゃんは、ゆんちゃんだもん」
傍にいた若い母親が窘めるが、第一次反抗期真っ直中の少女に、そういった理屈は通用しない。
「柳漣さん、すみません。何度言っても聞かなくて……」
「いえ、構いませんよ」
腰を落とし、姪の頭を撫でながら、穏やかな笑顔を返す。
「第一、オジサンはないでしょう。僕はまだ、二十代ですよ」
彫刻のように整った造り笑顔の裏では、暗く黒い炎が揺らめいていた。
柳漣は彼女が嫌いだった。
いつも元気で明るくて、太陽と笑顔の似合う良い娘だ。光が強いほど、闇もまた深くなる。
勿論、彼女に何ら非は無いし、責めるつもりもない。
ただひとつ、『彼』を奪ったこと以外は…………。

「久し振りだな、柳漣」
背中に掛けられた低い声に、柳漣は全身の血液が凍り付く思いだった。瞬時に暑さを忘れ、煩いぐらいに鼓動が響く。
「晴明……兄さん」
そこに誰がいるのか承知しながらも、一呼吸置いて、ゆっくりと振り返る。
「ご無沙汰……しています」
「お前はいつも同じ挨拶だな」
清明が身に着けているのは、ゆったりとした綿のシャツにチノパン、足元は素足にサンダルを突っ掛けている。完璧なまでに普段着だった。彼のことをよく知らない人間が見れば、とても本日の主賓とは思わないだろう。
柳漣の脇をいつの間にかすり抜けた花音が、父親の脚にしがみついていた。愛娘の無邪気な笑顔を見て、口元を僅かに弛める。
「変わりはないか? たまには戻って来い」
「だからこうして出向いたじゃないか」
「ああ……そうだったな」
義兄は気まずそうに目を逸らすと、火の点いていない煙草を挟んだ指で、無造作に伸びた頭髪をかきむしった。
「兄さん……誕生日、おめでとうございます」
今日は清明の誕生日。
本人の意思とは無関係に、パーティを名目にした政治的な駆け引きが、邸内のいたる所で行われている。
やる気がないのはいつものことだが、それに加えてうんざりした様子が感じられた。
「もう祝うような歳じゃない」
「ご心配なく。プレゼントは用意してませんから」
「そいつは結構」
軽口を交えた、極めて表面的な会話を続ける。
あの嵐の日、墓地で起こったことは、2人だけの秘密だ。第三者に漏らさなければ、無かったことと同義に扱える。
以来、それについて、お互いが口にしたことは一度も無かった。

「旦那様、申し訳ございません」
数歩下がって、初老の男性が頭を下げる。
柳漣がこの屋敷を出る前から、清明に使えている執事だった。
「藤波製薬の藤堂専務が、どうしてもご挨拶に伺いたいとのことですが……」
執事の言葉に、露骨に眉をしかめた。
「ちっ……俺を本気で祝いたいなら、仕事の話なんてするなよ。美渚は何処だ?」
「奥様は理事婦人たちの相手で、庭園を案内しております」
「……女は女で面倒だな」
「奥様はあの若さで頑張っていらっしゃいますよ……旦那様もお急ぎ願いますか。あちらで先方がお待ちです」
「……ったく、こんな日にまで出張ってこなくてもいいだろうよ。俺、名刺持ってないぜ」
「ご心配なく、私の方で用意しております」
「はいはい、さっすがですね」
昔と変わらない2人のやり取りに、柳漣は思わず苦笑した。
「あー柳漣、悪い、ちょっと花音を頼めるか?」
「ええ、僕は構いませんよ」
再び柳漣の足元に戻った姪は、若い叔父を見上げてにこりと笑う。
「じゃ、花音、いい子にしてろよ」
「はーい! いってらっしゃーい」
愛娘の頬にキスをすると、グループ当主は老執事と共に去っていった。

柳漣は姪の小さな手を引いて、ゆっくり庭の端へと歩く。
「花音、ボスに餌をあげようか?」
ボスとは裏庭の池で飼っている、大将格の錦鯉だった。
それだけでセンスを疑いたくなるような名前であるが、名付け親は彼の最愛の人物である。
「うん、あげる!」
娘が欲しがったのは金魚だった。
だが、金魚というカテゴリにおいて、一匹30円の和金しか知らない父親は、自宅に呼びつけた観賞魚の卸問屋に対し、言うに言い出せず、結局、錦鯉を買う羽目になった。
清明は欲しがった当人が、色が綺麗と喜んでいるので、何ら問題はないと言う。が、もう少し彼女が成長したら、鯉と金魚の違いを一度教えるべきだと、柳漣は心に誓っていた。

朱、白、金……鮮やかな色と模様が、苔色の水面に浮かび上がり、激しく水しぶきをあげる。
柳漣は幼い姪に手を貸しながら、一緒に餌を撒いた。
人工的に作られた溜め池とはいえ、場所によっては子供の身長ぐらいの水深がある。背の低い花音を池の縁に立たせ、足を滑らせて落ちないように、後ろから柳漣が支えていた。
「…………」
小さな背中を軽く一押し――それで全てが終わる。
もし、幼い少女が池の中に落ちて、溺れたとしたら……。
それは、目を離した一瞬で起こった不幸な事故、言い訳は後から何とでも立つだろう。

どぼん。

湖面に大きな波紋が広がった――――。

「ゆんちゃん、どうしたの……?」
誰かか縁に置いた大きな石が水面に落ちる。柳漣は屈み込んで、姪の小さな背中を抱き締めた。
……殺せるわけがない。
大切な人の血を分けた、大切な存在なのだ。
「……花音はパパのこと、好き?」
「うん、だいすき。花音はおおきくなったら、パパのおよめさんになるの」
「そう。それはママが困るね……」
「へいき。ママとはしんしきょーてーをむすぶの。ゆんちゃんはパパのことすき?」
「…………」
顔を伏せたまま、腕の中の少女をぎゅっと抱き締める。
「ゆんちゃん……? どしたの?」

ああ、大好きだよ――――

想いは、積年の時を経ても変わらなかった。
「花音……部屋に戻ろうか。きっと雨が降るよ」
「すごい、ゆんちゃんはなんでもわかるんだね、まほうつかいみたい」

咽せるような草いきれと、妖艶な百合の芳香と、掠れた喘ぎ……。

遠くで雷鳴が響いた。
誰の耳に届かずとも、彼だけには、はっきりと聞こえていた。

(終)

柳漣と清明の過去編です。
時間が小刻みに飛びまくっておりますが、何となく雰囲気で読み流す程度でよろしいかと。
どっちが攻めでどっちが受けなのか、それは本作における、永遠の謎です。
自由に想像してくださいませ。
(2007/11/30)

 

雪割草目次

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